被団協にノーベル賞ーあらためて「きのこ雲の下で何が起きていたのか」のこと。
2024年 10月 12日
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した。
昨日から今朝まで、多くのテレビに出演したのが被団協の代表委員である箕牧(みまき)智之さん。
毎日新聞から、あらためて箕牧さんの言葉を振り返りたい。
毎日新聞の該当記事
ノーベル平和賞の受賞が決まった11日、広島市役所で記者会見を開いた広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)理事長の箕牧(みまき)智之さん(82)は「(受賞は)夢にも思わなかった。核兵器の廃絶に向け、一段とはずみがついた」と喜んだ。
午後6時過ぎ、ノーベル賞の受賞が発表されると、市役所では歓声が起こった。待機していた箕牧さんはほおをつねりながら「うそでしょ、夢でしょ」と何度も語った。
記者会見に臨んだ箕牧さんは「訴えても、訴えても世界に届かないのが歯がゆい日々だった。平和賞の受賞で、政治家には核兵器をなくすべきだという考えになってほしい」と訴えた。
2021年に発効されながら、日本が署名・批准していない核兵器禁止条約についても「(日本の)署名・批准が可能になるのではないか。前向きに考えてもらわないといけない」と述べた。
そのうえで、21年10月に96歳で亡くなった被爆者で県被団協の前理事長、坪井直(すなお)さんの名前を挙げ、「『坪井さん、ノーベル平和賞受賞することになりましたよ』と伝えたい」とも話した。
坪井さんについては、亡くなった後に記事を書いた。
2021年10月28日のブログ
その記事では、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」の2015年8月7日の記事から多くを引用した。
「幸兵衛の小言」の該当記事
前日8月6日のNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」について書いたものだった。
もう更新もせず、ほとんどアクセスのないブログになっているので、かつてNHKはこんないい番組もつくっていた、という意味も含め、再度、紹介しようと思う。

この写真は、広島に原爆が投下されてから、約3時間後の貴重な写真。
写真を借りたNHKサイトの「NHKスペシャル」のページから引用する。
NHKサイト「NHKスペシャル」の該当ページ
1945年8月6日、広島で人類史上初めて使用された核兵器。
その年の末までに14万人以上の命を奪ったという数字は残されているが、原爆による熱線、爆風、放射線にさらされた人々がどう逃げまどい、命つき、あるいは、生き延びたのか、その全体像は実際の映像が残されていないために、70年の間正確に把握されてこなかった。
巨大なきのこ雲が上空を覆う中、その下の惨状を記録した写真が、わずか2枚だけ残っている。原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。
被爆70年の今年、NHKは最新の映像技術、最新の科学的知見、生き残った被爆者の証言をもとに、初めて詳細にこの写真に映っているものを分析し、鮮明な立体映像化するプロジェクトを立ち上げた。きのこ雲の下の真実に迫り、映像記録として残すためである。
平均年齢が78歳を超えた被爆者たちは、人生の残り時間を見つめながら、「いまだ “原爆死”の凄惨を伝えきれていない」という思いを強めている。
白黒の写真に映る50人あまりの人々の姿―――取材を進めると2名が健在であることが判明。さらに、その場に居合わせた30名以上の被爆者が見つかった。彼らの証言をもとに写真を最新技術で映像処理していくと、これまでわからなかった多くの事実が浮かび上がってきた。
火傷で皮膚を剥がされた痛みに耐える人たち、うずくまる瀕死の人たち---
皆、爆心地で被爆し、命からがらこの橋にたどり着いていた。写真に映る御幸橋は、まさに「生と死の境界線」。多くの人がこの橋を目指しながら、その途中で命尽きていたのだ。
きのこ雲の下にあった“地獄”。
残された写真が、70年の時を経て語りはじめる。
※フランス公共放送F5との国際共同制作。
番組の概要を記しておきたい。
(1)写真とその場所
中国新聞社に厳重に保管されている原爆投下の3時間後に撮られた写真のネガがあった。
撮影したのは同新聞社のカメラマンだった松重美人(まつしげ よしと)さん。松重さんんは爆心地から約3km離れた自宅で被爆した。それでも、仕事柄、カメラ(これは、きっと名機マミヤ・シックスですね)を持って町に出た。
御幸橋で、その光景に遭遇。当時、国民の戦意を削ぐような写真の撮影を禁じられていたので、松重さんは躊躇っていたのだが、カメラマンの本能からなのだろう、シャッターを切った。二枚目は少しアップの写真だった。
御幸橋は、町の中心部と郊外を結ぶ重要な橋。爆心地から2キロ以内の壊滅地帯のすぐ近くながら火災をかろうじて免れたため、爆心地方面から郊外に逃げようとした人がようやく一息つける地点だった
(2)生存者:河内光子さん
御幸橋で撮られた2枚の写真に同じ人物が写っていた。セーラー服を着たその女性は今も健在だった。その方は、当時13歳で、広島女子商業学校の2年生だった河内光子(こうち みつこ)さん(83)。
河内さんによると、ガラスの破片がいっぱいついて背中に怪我を負ったが、痛いという意識はなかったという。彼女は友達の怪我のことで頭がいっぱいだったという。隣に写っている友達は、服は破れ肌があらわになっていた。
当日、河内さん達は爆心地から1.6kmの貯金局で仕事をしていた。河内さんは、原爆の猛烈な爆風に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられて気絶した。意識を取り戻すと、近くには内臓が飛び出た姿の同級生などが倒れている。顔を血で染めた友だちが「頭が割れた」と言いながら、抱きついてきたという。
河内さんが、火災から逃げ、通れる道を探しながら辿り着いたのが御幸橋だった。投下から3時間後、何が起きたのか分からないまま、傷ついた体でここにいたのだ。
写真には、河内さんにとって忘れられない女性の光景が写っていた。その女性は、黒焦げになった赤ちゃんを抱いていた。その子の姉のようだったった。「(姉と思われる少女は)起きてと叫んでいた」。河内さんは、「起きて」と叫びながら黒焦げの赤ん坊をゆすっている様子を自分で再現してくれた。「かわいそうだったが、どうしてあげるわけにもいかなかった」と河内さんは回想する。
(3)生存者:坪井直さん
この写真では人だかりがしていて、足に何かを塗っている人もいる。その足元には四角い箱のようなものが映っていた。臨時の救護所となっていたのだ。
その光景を少し離れた場所で見ていたのが、生存者の坪井直(つぼい すなお)さん(放送当時90歳)。
坪井さんによると、それらの人々は火傷を負った体に食用油を塗っていたという。坪井さんも油を塗る順番を待っていたらしい。
坪井さんは当時20歳で、広島工業専門学校(広島大学工学部の前身)の学生。爆心地から1.2kmの屋外で被曝し、背中や顔などに大火傷を負い、耳の半分がちぎれていた。
瀕死の状態で御幸橋にたどり着いて周囲を見て、坪井さんは死を覚悟したという。坪井さんは、手元にあった石で「坪井はここに死す」と地面に書いた、と回想する。
番組後半、坪井さんは、自分の背中をカメラに写させた。70年経っても、大火傷の傷跡が痛ましい。きっと、原爆被害の記録を、自らの体で残しておきたい、という強い思いがあったのだろう。
(4)フラッシュバーンや、原爆投下後の光景
番組では、原爆特有の火傷「フラッシュバーン」についても、写真の検証を踏まえて説明される。
フラッシュバーンとは、強烈な熱線に当たることで皮膚の水分が一瞬で水蒸気になり、水蒸気で膨らんだ皮膚は裂けて垂れ下がり、痛覚神経がむき出しになる火傷。専門の医師の言葉によると、「おそらく人間が感じる痛みの中で最大の痛み」だという。
御幸橋にいた人の中には、フラッシュバーンによる耐えられない苦痛を味わっていた人も多かったと推定される。
フラッシュバーンの恐ろしさを、生存者の河内光子さんも自らの肉親のこととして体験していた。この写真にも写っている彼女のお父さんは屋外で被爆して大火傷を負い手が腫れ上がっていた。彼女が父親に声をかけ手を掴んだとき、腕の皮が剥けてしまったという。痛くないかと尋ねると、お父さんから「聞くな!」と怒られたと回想している。
番組制作にあたって、原爆投下当日に御幸橋を通った30名以上の方から話を聞くことができたらしいが、その光景は壮絶だったらしい。両手を突き出し、皮膚がめくれた腕が擦れないようにしていた人や、汚れた雑巾をぶら下げているような姿で多くの人が歩いていた、という言葉が、その光景の凄まじさを物語る。
(5)写真公表のきっかけなど
この写真は戦後しばらく人目に触れることはなかったが、その存在が世界に知られるようになったのは、アメリカの写真雑誌「LIFE」による1952年9月号のスクープだった。
なぜ、7年もの時間がかかったのかを、核兵器をテーマにしているジャーナリストのグレッグ・ミッチェルさんが語る。
ミッチェルさんは、写真を撮った松重美人さんから「写真はアメリカの進駐軍によって奪われてしまった」と聞いたという。
戦後、日本を占領したアメリカは、戦争被害の写真を検閲し、日本人が撮影した写真を見つけては没収していた。ミッチェルさんは語る。「原爆投下が実際に何をもたらしたのか、アメリカ政府は隠そうとした。一般市民を巻き込み無残な死に方をさせた事実を知られたくなかったのだ」。
2015年にワシントンで原爆展を開いたアメリカン大学のピーターカズニック教授は、公表までの7年間にアメリカで何があったのかを語る。この間、「冷戦」において、核兵器が重要な抑止力となるとアメリカは考え、原爆へのネガティブな情報である同写真は、日本はもちろんアメリカでも7年間秘密にされていたのだ。
2枚の写真に写っていた中では、河内さんの同級生も消息も分かった。
しかし、その同級生の女性は、被爆者として差別されることを怖れて、写真に写っていることを公けにすることを拒んだ。『黒い雨』でも分かるように、被爆者への差別は、根深いものがあったのだ。
爆心地から2キロ以内の壊滅地帯には、12歳~13歳の中学生が約8000人いて、勤労奉仕中だったその人たちの多くが亡くなっているという事実も、あまりにも辛い。
河内さんは、自宅で黒焦げになった姿で見つかった母親を含め、亡くなっていった人たちのことを思い、「私はどうして生きたのか」「どうして助かったのか」と問い続けてきたと言う。
生かされているのは、伝えるためになのか、それもよく分からない・・・と河内さんは語っている。生と死の紙一重のところにいた河内さんには、人には分からない苦悩が、70年続いているのだろう。
坪井さんは、放射能の影響に違いないと思われる癌などの病気と闘い続けてきた。
被爆者が年々少なくなるなか、坪井さんは杖を突きながら歩く身で、自らの経験を伝え続けた。
「人間の命がいちばん大事。その命の取り合いをする戦争なんてもってのほか」と若い聴衆に訴えていた。
「ガジェット通信」には、2枚の写真、実際の御幸橋にある写真を含む記念碑などを含め、この番組を的確に紹介しているので、ご参照のほどを。
「ガジェット通信」の該当記事
これが、もう一枚の写真。

あの番組では、写真をデジタル技術でより鮮明化していた。
最近のNHKには、「政府の広報部門か!」、と怒りたい時も多いが、こういう番組もつくっていたのである。
河内光子(こうち・みつこ)さんも、2018年1月22日、副甲状腺腫瘍のため廿日市市の病院で86歳で亡くなった。
爆心地近くにいた数少ない生存者である河内さんも坪井さんも、そして、被爆者手帳の申請をしている方々も、すべての人が、戦争被害者である。
原爆も原発も、人類が、自然に存在しない放射性物質を作り出してしまったことに端を発する、人間の管理できない魔の産物である。
日本政府が、かりにも核兵器廃絶を唱えるのであれば、「核」になり得るプルトニウムを作り出す原発も含め、廃絶すべきである。
坪井さんの遺志を継ぐ箕牧さんは、アメリカを訪れた際、アメリカと日本が一緒に核兵器禁止条約の署名・批准したらいい、と言うと、会場から大きな拍手が起こったとお話しされていた。
最低限、核兵器禁止条約会議にオブザーバー参加すべきとも訴えた。
国民としては当然と思われることが、政治では行われない。
多くの犠牲を伴う歴史から何も学ぼうとしない政府には、断固として戦争反対を唱え続けたい。
箕牧さんは、坪井さんの他に、長崎の被爆者谷口稜曄(すみてる)さんの名前も挙げた。
昨年の長崎の式典の日、谷口さんについて記事を書いた。
2023年8月9日のブログ
また、谷口さんの足跡を追う映画「長崎の郵便配達」もご紹介した。
2022年8月16日のブログ
2022年8月17日のブログ
2022年8月18日のブログ
体に鞭打って、核兵器廃止を訴え続けた坪井さん、谷口さんは、ご存命のうちに日本の署名・批准という願いを叶えたかったに違いない。
原爆被害は、その惨劇や傷跡に目をそむけたくなるが、世界で唯一の被爆国の国民は、あの日何が起こったのか、を知ることが重要である。
坪井さんや谷口さんが訴え、そして、残してきたものは、実に尊い。
ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマス、ヒズボラとの戦争、まさに現在進行形で核兵器使用の可能性のある今日、ノーベル賞は、被団協の活動を高く評価することで、世界に明確なメッセージを送った。
石破新総理は、このメッセージを、唯一の被爆国のリーダーとして、重く受け取るべきだ。
