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青山透子著『日航123便墜落事件 隠された遺体』(9)


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青山透子著『日航123便墜落事件 隠された遺体』

 青山透子さんの『日航123便墜落事件 隠された遺体』(河出書房新社、2024年8月30日初版)の九回目。


 まず、目次から。
 
□序 章 最高裁への茨の道
□第一章 独立なき司法の判断
□第二章 看護婦が見た隠された遺体
□第三章 検証ー羽田空港地上衝突・大炎上事故報道
□終 章 未来への道程
あとがき
注釈
補遺
【裁判資料】

 引き続き、「第二章 看護婦が見た隠された遺体」から。

 昨年末、ある元看護婦から、文集が青山さんの元に届いた。
 ※青山さんが、当時の看護婦の姿への尊敬の念から、看護婦、と書いているので、それを踏襲する。

 日航123便墜落の際、生存者の介護や検死の支援に従事した病院の看護婦たちの記録をまとめた文集だった。
 その内容に新たな事実を発見した青山さんは、ぜひ話を聞きたいと思い文集の送り主に会いに行った。

 送り主は、宮部晴美さん、現在86歳。
 日航123便墜落の時、多野総合病院(現公立藤岡総合病院)の外科担当の看護婦だった。
 
 1985年8月13日、生存者の川上慶子さんや落合由美さんが病院に運ばれ、必死の看護にあたった中の一人だった宮部さんは、婦長が翌14日から始まる藤岡市民体育館での検死に、ボランティアで手伝ってくれる人を募った。
 外科の看護婦としての使命感を感じた宮部さんは、真っ先に手を挙げた。

 地元看護婦の第一号として、宮部さんは検死に立ち会うことになった。

 この検視所は14日の朝9時に設置されたが、御巣鷹の尾根から自衛隊のヘリコプターで遺体が運ばれてきたのは午前10時過ぎぐらいであったという。早朝の6時から待機していた外科の先生方や日本赤十字の看護婦さんたちもいたので、交代要員として宮部さんは通常勤務を終えた後の午後5時から多野総合病院の看護婦20名とともに加わった。群馬県医師会の記録によると、14日に出勤した県医師会所属の医師は76名、藤岡多野医師会は35名、日赤などから6名、合計117名の医師たちが、毛布に包まれて次々と運ばれてくる遺体を検死していた。看護婦は日赤から61名、宮部さんたちも含む藤岡多野医師会所属は48名、合計109名であった。総勢226名もの医師と看護婦が一堂に会しているのである。あたりを見回していると、手の空いた人がすぐに他のところに入って検死をするといった状況であった。

 これが、本書に掲載された遺体安置所の写真。

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 当時の藤岡市民体育館の見取り図が掲載されているので、ご紹介する。

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 この図で覚えて欲しいのは、遺体搬入口は、右手の中央部分である、ということ。

 14日の夜のこと。

 この日、8月14日の夜遅く、肉の細切れが入ったお弁当が配布されたが、恐怖から震えてしまい、口にすることができなかった。夜8時過ぎから、病院のマイクロバスが迎えに来る夜11時までの間、宮部さんは端から二番目のところで作業を続けていた(153頁を参照)。

 本書では、運ばれてくる遺体の状態や検死作業の過酷さ、当時の蒸し風呂のような体育館の悪環境などが説明されているが、割愛する。

 とにかく、過酷な現場であったことは間違いがない。

 さて、ついに、重要な宮部さんの証言に入る。

 文集に宮部さんが書いた文章には次のような記述がある。
「夜遅くなって夕食に肉の細切れが入った折り弁当をいただき恐怖に震えた。私の隣が一番端だったので、そこに機長の遺体が運ばれた。解剖をするので身体を拭いて計測だけで、処置はしなくてよいと言われた。機長の制服は着ていなくて、色の違う厚い毛布に包まれて、酸素マスクが装着され紐も長く付いて、背中には身の丈もあるアルミのような角棒が突き刺さるように付いていた。右手は指輪の位置から先が焼けて指骨が出ていた。大腿骨・下肢骨ともに数箇所骨折し身長が小さくなっていた。肋骨は全部折れているために胸は薄く、幅も狭くなり、頭頂部も欠損してさらに身長が縮小していた。身体を拭き終わると骨折部位や傷の計測をして、縫合など一切しないで毛布に包んで棺に入れ別の場所に運ばれた」

 私が最も驚いたのはこの記述である。なんと、機長が初日に運ばれてきたという。
 これは、事故当時の報道とまったく違うではないか。この部分について、もう一度詳しく話をしていただいた。
「機長が運ばれてきたときは、夜も遅くて、人出が足りなかったので、医師も看護婦も一人ぐらいで、後は警察の人で、私もそちら(機長が運ばれてきた検死のところ)に入りました。警察の人が「機長ですから、解剖しますので体をきれいに拭いてもらって、そのあとに傷とか写真を撮って計測しますので、一切縫合の処置をしないでください。解剖しますので」と言いました。それから毛布に包んで棺に入れて、別の出入り口から出ていきました」
 この「機長です」と言ったのは警察であり、その棺が、今までとはまったく別な出入り口から入ってきたということである。この場所を図に書いてもらった。
「はい、他の乗客とは別の出入り口でした。特によく覚えています。こちら側は、一般の乗客の入り口で、報道関係者が深夜でもたくさんいましたし、多くの人の目に触れる場所でした。でも、警察官が『機長です』とはっきり言った棺は、この関係者入り口から入ってきました。

 ここで明らかになったのは、14日深夜、一般乗客とはまったく違い、別の入り口から機長の遺体が運び込まれてきたという事実だ。なんと、これは検死初日の14日の話である。
 一方、機長発見のニュースは14日ではなく8月30日になってようやく新聞各紙が報道している。壮絶な死・・・高浜機長遺体確認 18日目、歯型が決め手」(サンケイ新聞、1985年8月30日)「機長の妻つらい気遣い 17日ぶり夫の遺体確認」(東京新聞、同日)「491人目・・・機長の遺体」(朝日新聞、同日)。

 これが、153頁の宮部さん手書きの図と検死場の平面図の一部。

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 前の平面図から左に90度回転した状態。

 図のキャプションには、宮部さんの記憶が正確であること、そして、機長の遺体が、他の乗客の遺体が運ばれる入り口ではなく、警察関係使用室の脇の出入り口から運ばれた、と書かれている。

 本書掲載の当時の新聞記事の写真。

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 機長の制服がなかったことは、青山さんの以前の著作でも指摘されていた。

 それにしても、不可解だ。
 
 当時のメディアは、機長の遺体が事故から18日目になって、やっと発見された、それもほんの少しの部位だったと報道していた。

 しかし、検死に立ち会った宮部さんは、検死開始の初日14日夜に運ばれていて、損傷はあったものの、発見された部位ははるかに報道よりも多かったのだ。


 記憶を元にした手書きの図の正確さなども考えると、宮部さんの証言は、大いに信憑性があるだろう。


 なぜ、隠れるように機長の遺体が運ばれたのか、なぜ制服がなかったのか、アルミ棒は何のためだったのか、などなどの疑問については、次回以降、青山さんの推理とともにご紹介したい。


 メディアの報道内容が必ずしも真実ではない、という事例が、また一つ増えそうだ。
Commented by saheizi-inokori at 2024-09-12 14:12
核心ですね。
Commented by kogotokoubei at 2024-09-12 16:19
>佐平次さんへ

国もJALも、機長の遺体を隠したい理由があった、ということです。
本来は、解剖してアルコール摂取などの確認が必要なので、真っ先に探すべき遺体。
18日も経って見つかるなんてこと、ありえないんです。
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by kogotokoubei | 2024-09-12 12:57 | 日航123便墜落事故 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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