雲助が圓朝の速記本で芸を磨いた理由。
2024年 07月 16日
前の記事で、柳家さん喬が落語協会会長に就任するのは、人間国宝(重要無形文化財保持者)になれなかった、その代わりだった、という記事について小言などを書いた。
その中で、五街道雲助が人間国宝になったのは、古典を数多く発掘したことも一つの要因と書いた。

五街道雲助著『雲助、悪名一代』
では、なぜ、雲助は、過去の噺を掘り起こすことになったのかを、『雲助、悪名一代』から、紹介したい。
ちなみに本書は、2013年11月、「らくご街道 雲助五拾三次」の『名人長二』の三回あるうちの初日に行って、サイン入りの本を買ったのであった。
2013年11月19日のブログ
「第五章 師匠もつらいよ」から。
「亜流」だから見出せた「わたし流」
師匠馬生が亡くなって、落語を教えてくれる人、教わりたいと思える人がいなくなってしまった。
と申しますのも、前座や二ツ目であれば、自分の師匠でなくとも稽古をお願いすればつけてもらえますし、また稽古する方も、落語は連綿と受け継がれてきた共有財産ですから、自分の弟子ではなくとも責任をもってきっちり教えなくてはいけません。
ところが、真打になると、むしろ前座や二ツ目に稽古をつけられるようにならなくてはなたない立場です。
芸を磨くのに頼れるのは自分だけ、芸に関して甘えられるとしたら、それは自分の師匠だけなのです。
落語界の主流である、三遊派、柳派、それぞれの流派には、伝承されてきた「型」がある。
たとえば、女を演じるときには、ここから声を出して、ここに手を置いて、こういう仕草をする、といった決まりのようなものがあります。
五代目古今亭志ん生、そして八代目桂文楽は、これら二つの主流に対して、亜流。三遊や柳の型にとらわれない、自分の型を一代で作ってしまった天才。
桂文楽の「型」は、無駄を削り、言葉から仕草から、文楽の考える「こうあるべき」姿へ磨きあげたものでした。
それに対し、志ん生の「型」は、「なんでもいいんだよ。お巡りに捕まるわけじゃないんだから」という無手勝流。志ん生自身、若い頃はきっちりと型を守っていたそうなので、いわば「型やぶり」、それは真似できるものではありません。
二ツ目のころから、まずは主流の型を身につけておきたいと思っていました。
当時、三遊派のトップは六代目三遊亭圓生、柳派は五代目柳家小さん。
圓生は落語協会の会長、とても二ツ目の若造が稽古を頼めるような人ではありません。
小さんは弟子入りしたかったくらい好きで、せめて稽古をつけてもらいたいと思っていましたが、自分の弟子には一切稽古をつけない人でしたので、門外のわたしがお願いするのははばかれました。
実は圓生の芸というのはあまり好きではありませんでした
わたしは落とし噺が好きでしたから、志ん生や、小さんの刈り込んだ芸に比べると、無駄なところの多い、くどい芸に見えました。
あまり好きではないけれども、圓生の芸を舞台袖から見続けると、ひょっとして圓生にこの落語を教えた落語家は、ほんとうは違う風にやっていたんだけど、圓生はそれができないからこういうやり方になってるのかなと、三遊のなかで受け継がれてきた流れがみえてきたんです。
歌舞伎でもそうなのですが、親子二代で同じ役を演じているを観ますと、父親の方はこうやっていたのを、息子はまだ未熟だからできないんだな、とわかることがあります。
三遊の芸の源流をたどって、わたしは三遊亭圓朝の速記に辿りつきました。
寄席などで演じられた落語を書き起こした速記は、圓朝の時代、専門の雑誌があったほど、読み物として人気がありました。
当時「文語」と「口語」が分かれていましたから、「小説」も、もちろん文語体、いわゆる「古文」です。その時代のひとにとっても、すでに文語は難解であったのでしょう。
圓朝の速記は新聞に掲載されていましたから、いわば新聞小説の走りですね。
この圓朝の新聞連載がきっかけて、言文一致体の小説が生まれたと言われています。日本近代文学は、落語によって始まったのです。
しかし、それも明治時代の話。百年近く経った圓朝の速記から、圓朝の高座のライブ感を掘りおこすのは、大変に困難な作業でした。
師匠馬生が亡くなったのは、雲助が真打に昇進した、翌年のことだった。
教わる人が突然消えてしまい、かと言って、前座でも二ツ目でもない雲助が、藁をもつかむ思いで辿りついたのが、圓朝の速記だった、というわけだ。
そして、この話からは、晩年も圓朝の速記本を身近に置いて、独演会を開きたい、と周囲に漏らしていた志ん生のことに、思いが至る。
当初は、圓朝の速記に苦労していたが、次第に、読む楽しさを見出していた。
圓朝作品を、悪戦苦闘しながら高座で演り続けたことで、速記に強くなったといいますか、圓朝が読めたのだから他はなんでも読めるだろうと思えるようになりました。
それから色んな速記を読みはじめますと、おもしろいなんてもんじゃない。
明治や大正の時代に名人と呼ばれた落語家たちの、口調から芸風から、その高座が浮かび上がって見えてくるようでした。このひとはテンポよくまくしたてて笑わせる芸、こっちのひとはちょっと間をあけてじわじわくる笑いをとるタイプ。
その時代のギャグなんかも、たまらなく新鮮に感じられました。
古典落語自体が、江戸や明治を舞台にしていますから、どうしても現代では通じない文化・風俗が出てきます。
それをお客様にわかるように、現代に置き換えたり、説明を加えるのもひとつのやり方ですが、わからなくたって、おもしろいものはおもしろはずなんです。
いま生きている落語家に教えてもらうことはできなくても、速記から、過去の名人だちから、落語を教えてもらうことができる。
馬生があまりにも早く亡くなってしまったのでそうせざるをえなかったとはいえ、速記に落語を教わるという「わたし流」の芸の光明を見出しました。
以上が、雲助が「わたし流」に辿りついた背景。
本書に掲載されている、速記本を元にした台本の写真。

この本を入手した、2013年、雲助の『名人長二』三回シリーズが始まる同じ11月に、むかし家今松も、約80分で通しを演じていた。
2013年11月7日のブログ
極力内容をそぎ落としての構成なので、今松の高座には、やや無理があったが、その挑戦する姿は尊いと思った。
雲助より入門は早かったが、今松は、第一回真打昇進試験で雲助と同時に真打昇進。
雲助の古典掘り起こしは、今松にとっても大きな刺激になったのだと思う。
雲助が人間国宝になるとは、周囲も本人も思ってはいなかったと思う。
しかし、圓朝の速記と格闘し、その名作を演じてベテランの落語愛好家を唸らせることもあれば、寄席で『子別れ』や『ざるや』で初めての客でも大いに笑わせてくれる芸の幅、その奥行きの深さが、重要無形文化財である落語を体現してくれるのに適任だと、今更ながらに思う。
