戸谷洋志著『原子力の哲学』より(13)
2024年 07月 13日

戸谷洋志著『原子力の哲学』
戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から十三回目。
本書の目次。
□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ
引き続き、「第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス」から。
ヨナスは、戦後間もない頃、原子力の平和利用に肯定的であった。
とはいえ、ヤスパースほどは楽観的ではなく、まだ、評価するに十分な情報がないことが、そうさせていた。
引用する。傍点部分は、太字とする。
剣と鋤(すき)
戦後、イギリス陸軍を退役したヨナスは、カナダを経由してアメリカに渡り、特に1970年代以降、科学技術に対する新しい倫理学の構築に専念していた。
ところで、技術を倫理学の主題にする、という考え方は、西洋の倫理学の伝統に従うものではない。これは本書の第三章で取り上げたアンダースによる手段と目的の関係をめぐる議論と通底している。前述の通りアンダースによれば、一般的に、手段としての道具の使用はその目的によって正当化されている。それと同様に、伝統的な倫理学において、技術に対する倫理学的な評価は、その技術が何の目的のためにその技術を使うのか、という観点から与えられるのであり、問題の本質はあくまでもその技術を使用する人間に還元されてきたのである。
たとえば、ある人が剣で他人を殺したとしよう。伝統的な発想に従うなら、この行為が善いか悪いかを判定するために考えられるべきことは、殺人が剣という技術的な手段によって行われたということではなく、この人間がなぜ殺人をしたのか、ということである。たとえば、強盗するために殺すのと、正当防衛のために殺すのとでは、同じ殺人であっても評価は変わりうる。それに対して、同じように強盗のために殺したのだとして、殺す手段が剣だったのか、素手で絞殺したのか、ということは大きな問題ではない。もちろん、残酷な殺し方をすれば評価は変わってくるかも知れないが、それはやはり本人の残酷さが問題なのであって、残酷さを発揮させた技術が問題なのではない。そうである以上、倫理学にとって技術は副次的な地位を占めるに過ぎない。少なくとも伝統的にはそう考えられてきた。
しかし、ヨナスによれば、現代の科学技術に対してもはやこうした前提は通用しない。なぜなら、科学技術の力があまりにも増大したことによって、その影響ははるかに遠い未来にまで及ぶようになり、それによって善い目的のために行われた行為が結果としては悪い帰結をもたらす、という事態が生じうるようになるからだ。ヨナスは次のように述べる。
困難は次の点にある、すなわち、技術が悪い集団によって、つまり、悪い
目的のために誤用されるときだけではなく、それが善い意図によって、
その本来的で最高に正当な目的のために投入されたとしても、それはそれ
自身のうちに脅威となる側面をもつのであり、それは長い時間をかけて
最後の決定権をもつようなものなのだ。そしてこの長期性はなんらかの
仕方で技術的な行為への組み込まれているのである。
ここでヨナスが指摘しているのは、善い意図で行為したが、何らかの偶然や過誤によって、悪い結果がもたらされてしまう、ということではない。そうではなく、善い意図で行為し、それによって実際に善い結果がもたらされるにもかかわらず、その結果が「長い時間」を経て悪い結果への転じてしまう、ということである。
使用される技術ではなく、人間の意図、あるいは目的が、その行為を評価する指標となる、ということだった伝統的な倫理観が、もはや、そうは言ってられなくなった、ということである。
引用を続ける。
ヨナスはさらに次のように述べる。
一見して、道具の使用目的だけを顧みれば、善い技術と有害な技術を
区別することは容易であるように思える。鋤は善いものであり、剣は
悪いものである。救世主の時代においては、剣は鋤へと鍛え直されう
る。このことは現代のテクノロジーにおいては次のように翻訳される。
すなわち、原子爆弾は悪く、人類食糧確保を助ける化学肥料はよい。
しかしここで現代のテクノロジーによる困惑させるようなジレンマが
出現する。その「鋤」は、長期的には、「剣」のように有害なもので
ありうる、ということだ!(そして、増大していく影響の「長期性」
は、いま言われたように、現代の技術の使用に奥底から結びついて
いるのだ)
伝統的な倫理学は「鋤」(善い行為)と「剣」(悪い行為)とが厳密に区別されることを前提にしていた。しかし科学技術はこの区別を撤廃し、善い意図によって行われた善い行為が同時に悪い行為である可能性を開くのである。
ここで問題なのは、ある技術について、それが「鋤」であるのか「剣」であるのかが決定不可能になる、ということだ。たとえばヨナスはここで「化学肥料」を「鋤」の代表例として挙げている。ある人が、まったくの善意によって化学肥料を使い、それによって実際にある地域の飢餓を救済するとしたら、それはまttかうの善い行為である。しかし、その結果として100年後に生態系が変わり、深刻な環境破壊が引き起こされるかも知れない。こうした事態を倫理的に評価する際、もはや行為の意図だけと重視することは通用しなくなるのである。それによって、ある行為が結局のところ善いのか悪いのか、それが「鍬」なのか「剣」なのかは、長期的な時間地平のもとでは決定不可能になるのだ。
善いのか悪いのかが決定不可能な状況で、それでは、我々はどうしたらいいのか。
それについてのヨナスの見解は、次回。
紹介した箇所を読んだ時、私が真っ先に思い出したのは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』だ。
DDTを始めとする殺虫剤や農薬などの化学物質による自然破壊について訴えた有名な書。
効率的な食糧生産のために、化学肥料、農薬は、重要な役割を果たしたのは事実だろう。
しかし、長い年月を経て、かつので善い行為は、悪い行為であったと批判されるようになる。
また、直近で言えば、ネットの功罪にも思いが至る。
技術としてのインターネット、SNSには、さまざまなメリットもある。
しかし、その善い行為は、それほど長い歴史を経ずして、「鋤」でもあるが「剣」でもあることが明確になってきた。
また、アメリカで生まれたファストフードは、当初は、早い、安い食事を多くの人に提供する“善い”行為であったはずだ。
しかし、そのために使われてきた手法が、さまざまな歪を生じさせてきたことも、明らかである。
ほぼ10年前、エリック・シュローサー著『ファストフードが世界を食べつくす』をご紹介したことがあるので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2014年7月24日のブログ
私は、テレビも見ず、新聞も読まない若者にとって、スマホで見るショート動画やYouTubeは、彼らにとって「鋤」と思われているかもしれないが、実は、それは「剣」かもしれないよ、と言いたい。
現在の「鋤」が、100年後に「剣」だったと分かる前に、手を打つことが重要だ。
もちろん、すでに「剣」であると分かっている核兵器を、地球上からなくすことは、当然のことである。
今日の介護施設(有料の老人ホーム)での調理補助のアルバイトは、先輩が横でサポートしてくれたが、66人分の昼食準備、ほぼ全て行った。
なんとか、こなすことができた。
陶器の食器も、今のところ一つも割ることなく、洗うことができている。
以前の老健との違いでもあるが、入居者の家族も一緒に昼食をとる場合があり、今日はお二人追加だった。
今日は調理師Mさんが、朝から夜までワンオペ。
夜の食事のフルーツ、スイカを少し分けていただき、食器洗いと乾燥機移動の後、まさにオアシスのような味を楽しんだ。
来週水曜まで先輩と一緒の研修で、土曜から独り立ちしなくてはならないが、頑張れそうだ。
施設の職員さんたちは、若い方が多い。
まだ日の浅い方も数名いて、食札並べに苦労している。
一緒に頑張ろうね・・・そんな気持ちである。
