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戸谷洋志著『原子力の哲学』より(12)

 少し時間が空いたが、この本。

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戸谷洋志著『原子力の哲学』

 戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から十二回目。

 本書の目次。

□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ

 今回から「第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス」をご紹介。

 まず、本章の冒頭部分を引用。

 高レベル放射性廃棄物の放射線量が、自然放射線レベルにまで低下するのに、約10万年の歳月が必要であるといわれている。そうである以上、放射性廃棄物の最終処分場は、10万年間の貯蔵に耐えられるよう設計されていなければならない。もしも施設に事故が起き、廃棄物が自然界に漏出することがあれば、その時代に生きている人々の生活環境には深刻なダメージが生じる。この意味において、現在世代は未来世代に対して責任を負っている。
 ハイデガーを師とし、アンダースおよびアーレントと親友であったハンス・ヨナス(Hans Jonas/1903-1993)は、こうした未来世代への責任を自らのテーマとした。主著『責任という原理』(1979年)は、科学技術の潜在的な危険性を訴え、未来世代への責任を基礎づけることができる新しい倫理学の必要性を指摘した。同書は、環境倫理学の領野における「世代間倫理」と呼ばれる新しい問題圏の開拓に寄与し、今日においても大きな影響力をもっている。
 ヨナスはその倫理思想のなかで、遺伝子工学、地球温暖化、環境汚染など、現代の科学技術によってもたらされるさまざまな負の影響を精査しているが、そうした文脈のなかで、原子力の問題も論じられている。本章では、未来世代への責任を念頭に置きながら、ヨナスによるそうした原子力をめぐる議論を概観していこう。

 少し、ヨナスのプロフィールを補足する。
 1903年にドイツで生まれ、ハイデガーとブルトマンの元で哲学博士の学位を得た。マールブルクで学んでいた時期に、同じく哲学博士の学位を得るため研究していたハンナ・アーレントの知遇を得、二人は、生涯永続する友人となった。

 師と仰ぐハイデガーが、1933年にナチス党に加わったことは、ヨナスにとって、大きな衝撃だった。ユダヤ系の血を引き、彼自身積極的なシオニストであったヨナスは、偉大な哲学者であってさえこのような政治的な愚行を行い得るという事実に、哲学の価値に対する疑問を抱くことになる。
 その1933年、ヨナスは、ドイツを去ってイングランドに移った。

 引用の続き。
 なお、引用されているヨナスの著書の日本語版が出版されていない場合は、巻末の注にはドイツ語の書名が記されているが、引用元については、割愛する。

 核兵器と原子力発電

 ヨナスは第二次世界大戦中にイギリス陸軍に従軍しており、彼は広島と長崎への核攻撃の報せを兵士として受けることになった。そのため、原子爆弾に対する彼の考えにはしばしば軍事的な視点が反映されている。たとえば晩年の回想では彼は次のように述べている。

  私たちはこの戦争の終わりに原子爆弾を使った。それは人類が考慮すべき
  ことに新しい要素を付け加え、人類のなしうることの新しい要素を示した。
  すなわち、人間が様々な状況のなかで、どのようにして、自らの破滅と、
  人間がそこから生じてきたすべてのもの〔自然〕の破滅との寄与するのか、
  ということだ。私は次のようなことを付け加えなければならない。すなわ
  ち、私は当時、原子爆弾の発展と使用をただ軍人の観点からのみ、軍事的
  な必然性として、つまり、もしもアメリカが原子爆弾を作らなければ、
  別の勢力によって作られていたであろうものとして、眺めていた。そして
  私は当時、原子爆弾についてまずもって原子力エネルギーの平和的使用の
  ための可能性にも気づいていた、

 原子爆弾は確かに人類にまったく新しい脅威をもたらした。しかしそれは作られるべくして作られたのであり、軍事的に避けようのない出来事だった。そう考えると同時に、ヨナスは、原子力発電に対してある種の希望を感じてもいた。

 ヨナスは、1945年にハイデルベルグでのヤスパースとの会話が、この後、ヨナスの回顧談として紹介されている。

 原子力エネルギーの平和利用により、無限に安価なエネルギーを得ることで、ゆとりのある社会の出現が想像できる、とヨナスはヤスパースに話し、ヤスパースは、「結構、結構。まさしく、それは恐らく結構なことですよ」と答えたらしい。
 このシリーズでは、「第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース」は割愛するが、ヤスパースは、原子力発電に対しては楽観的で、著書で「管理が十分であれば高度の安全性が達成されうるものであることが、信憑性のあるものとして報告されている」と書いている。

 ヨナスは、ヤスパースの見解について、当時はまだじっくりと検討できる状態になかった、と著書で記している。

 原子力の平和利用、について、戦後しばらくは、哲学者の中でもヤスパースのように、それを期待した人は多かった。

 また、科学技術の発展がユートピアを実現する、と主張する思想家もいた。
 その中の一人が、マルクス主義の思想家エルンスト・ブロッホだった。

 ブロッホは『希望という原理』(1959年)という大著のなかで、人間を未来に規定された存在として捉え、科学技術の発展によって実現されるユートピアの理論を提示した。これに対してヨナスは、そうしたユートピア主義によって加速させられる科学技術が、翻って人類に大きな脅威をもたらしうることを指摘し、それに対抗する倫理思想として『責任という原理』を著した。この題名は『希望という原理』へのオマージュであり、つまりヨナスにとってブロッホは最大の仮想敵なのである。

 次回も、同じ章から、ハンス・ヨナスについてご紹介したい。


 第二次世界大戦後、科学技術の発展によるユートピアを信じる、あるいは、期待した人は、少なくないだろう。

 SFでは、空をタクシーが飛び交い、超高層ビルで人々は働いている。
 肉体労働などは、ロボットが担い、食事も、好きな物が、自動的に作られて提供される。

 そんな夢の世界が、未来に訪れようとしているのかは、現実が明白に否定している。
 

 科学技術の進歩に夢を託す一つの象徴的イベントが万博なのかもしれない。

 1878年のパリ万博は、「New Technologies」をテーマとし、グラハム・ベルの電話機やエジソンの蓄音機、自動車が出品される一方で、植民地から連れてこられた「原住民」たちを展示する「ネグロ村」が設けられた。

 
 大阪万博会場では、3月にガス爆発が起こり、その後もあちこちからメタンガスが漏れている。

 「ガス漏れ注意」の会場に、誰が喜んで出かけるのだろう。

 その会場は、2030年、維新の本当の狙いである、カジノになる予定だ。

 だから、2025年には、何が何でも万博を開催し、カジノ会場となる人工島「夢洲(ゆめしま)」への交通網を作る。
 その後、夢洲の地下からも、反対する国民からも「ガス抜き」をして、カジノを作る、なんてことを、吉村たち維新の連中は、考えているのかもしれない。

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by kogotokoubei | 2024-07-12 12:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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