『テキーラ・サンライズは、別れの味』
2024年 06月 07日
テキーラ・サンライズは、別れの味
60も後半に入ったこの頃、昔のことが思い出されてならない。
特に、正月、年賀状を見ていたりすると、いろんな思いが蘇ってくる。
30年余り前、N市にある広告代理店の支局に勤めていた頃、行きつけは職場近くのジャズ喫茶雨戸、住んでいるアパートの一階にあった大衆割烹の松之山、そして、その二軒の途中にあるバー菜穂子だった。
そして、来社するテレビ局の人がよく泊まるホテルのバー「マウンテン・パス(峠)」も、欠かすことができないだろう。
会社のあるビルの一階にある喫茶「サフラン」にも出勤前必ず寄ってコーヒーを飲むのがルーティンだった。
それぞれの店で、いろんな出会い、そして、別れ、また、思い出があった。
N市に来て12年目の3月ことだった。
私は、大学時代の失恋のことを、日曜夕方にかかってきた一本の電話で思い出すことになった。
その二年前の夏に、私はバー菜穂子のママの青春時代の甘く切ない思い出を、当時の北海道のテレビ局の名古屋支局長で、私の酒とミステリーの師匠だった、竹田さんと聞くことになった。
場所は、竹田さんの定宿のホテルのバー「マウンテン・パス(峠)」だった。
バーテンダーの吉田さんと菜穂子ママが若かりし時、二人は横浜のある老舗ホテルのバーでの思い出を共有していたが、それは、それ以前には語られることのなかった、ママの恋の物語だった。
外資系のホテルに勤務して二年目のママ、当時の直子さんは、学生時代にアルバイトしていた英会話学校で知り合ったアメリカ人のスティーブとの付き合いが続いていた。
その日、スティーブは、そのバーで、故郷で日本車のディーラーを経営する父親が倒れ帰国しなければいけないと直子さんに告げた。
そして、父親がどうなろうと、帰れば会社を継ぐことになるだろうから日本には戻れないかもしれないと言い、直子さんに、一緒にアメリカに来て欲しい、と言うのだった。
しかし、直子さんは、仕事がちょうど面白かった時期でもあり、まだ25歳という若さだったから、その求婚を断った。
吉田さんは、そのバーで修行中に、偶然、その場に居合わせたのだった。
その時、飲んでいたカクテルを飲むママに、竹田さんも私も同じカクテルを吉田さんに頼んで、ママの青春時代の思い出に乾杯した。
私の失恋は、菜穂子ママほど劇的ではない。
その日の夕方、家でジャズのCDをかけ、コーヒーを飲みながらミステリーを読んでいた私の部屋の電話が鳴った。
それは、京都のある私立大学時代に所属していた運動部の女子部の主務、マネージャーの弘子ちゃんからだった。
今では、ソフトテニスと言うが、当時は軟式庭球、略して軟庭と呼んでいた体育会のサークルに、私は四年間所属していた。
私も、四年の時に主務だった。
卒業してからも、私も協力して弘子ちゃんが同期の住所録を作ってくれていたから、毎年年賀状のやりとりはあったが、彼女からの電話を受けるのは初めてだった。
受話器をとり
「〇〇君、私、弘子」
と言う声に驚いた。
「えっ、びっくりしたなぁ、何かあった。同期会の相談?」
と答えると、一瞬の間の後の、
「実は、昨日、美佐江ちゃんが、亡くなったの」
という彼女の言葉に、私は絶句した。
大学時代、女子部の副キャプテンだった美佐江が、亡くなった、と言うのだ。
私は、大学二年の頃から、美佐江と付き合っていた。
正直なところ、結婚も考えていた。
しかし、卒業し、赴任地の新潟に向かう前の夜も含め、そのことを言い出しかねたまま月日が経ち、彼女がお父さんの勧めるまま、京都の料亭の二代目となる男と結婚したことを弘子ちゃんの年賀状で知ったのは、六年前だった。
美佐江からは、年賀状は一度も受け取っていない。
弘子ちゃんの年賀状では、子供も二人いたはずだ。
スキルス胃がん、だったらしい。
弘子ちゃんは、通夜、告別式の日どりを教えてくれたが、番組改編期の戦いの真っ最中で、とても京都には行けそうにない。
私は、弘子ちゃんに、
「ありがとう。でも、通夜、告別式には行けそうにない。みんなによろしく伝えて」
と言った。
「忙しいんでしょうから、無理しなくていいよ」 という言葉を聞き、
「知らせくれて、ありがとう」
と言って、受話器を置いた。
3月の早生まれの美佐江は、三十五歳の誕生日前に、短い人生を終えたのだった。
しばらく、呆然としていた。
その後、美佐江が、病院で亡くなったのか自宅だったのか、苦しんだのか、手術をしたのか、など、弘子ちゃんに聞くべきことがたくさんあったとは思ったが、もう美佐江は戻って来ないし、第一、他人の妻なのだ、と妙な割り切りをしていた。
料理が上手な彼女がつくったサンドイッチや、おにぎりを持って、公園などに行く程度の付き合いではあったが、運動部がオフの時に、よくデートをしていた。
1976年2月、イーグルスの初来日公演、大阪のフェスティバルホールにも二人で行った。
大学三年になる直前の頃だ。
CCR解散後、私は、ウェストコースト・ロックのこの若いバンドが好きになった。
ちょうど、クラブ活動のオフの時期。
絶対いいから、と言って、コンサートに彼女を誘っていた。
アルバムは「呪われた夜」が出たばかり。
ちなみに、「ホテル・カリフォルニア」はその年の12月リリース。
私は、バーニー・レドンが在籍していた時期の、土の香りのするイーグルスが、好きだった。
「呪われた夜」発売を記念したツアーだったが、私は、大好きなアルバム「ならず者(デスペラード」や「ファーストアルバム」の曲も聴きたかったし、もちろん、演奏してくれた。
幕が上がり、西部開拓時代のような背景を前に、♪Take It Easyで始まった。
すぐに、彼らの演奏に夢中になっていた。
そして、ラスト近くに、♪テキーラ・サンライズが演奏され、私はなんとも言えない気持ちになった。
その時、隣の席の美佐江がどんな表情をしていたか、よく覚えていない。
大学卒業間際の、広告代理店の赴任先の新潟に向かう前夜、私は美佐江とあるホテルのレストランで食事をした。
美佐江は、父親が経営する工務店の手伝いをすることになり、就職活動はしていなかった。
その後、そのホテルのバーに行き、カクテルを飲もうと誘った。
まだ、レイモンド・チャンドラーにはまる前のことで、ギムレットなど飲んだこともなかった。
私は、
「これ、そんな強くないと聞いているから、女性にも合うと思うよ」
と、テキーラ・サンライズを二つ頼んだ。

オレンジジュースとテキーラとグレナデン・シロップのカクテルは、ローリング・ストーンズのミックジャガーがメキシコで飲んで大好きになったことでロック・ファンには有名だったが、私には、イーグルスの名曲というのが、注文の理由だったし、二年前のコンサートの思い出もあった。
私は美佐江と無言で乾杯した。
私が、思い切って話そうとしたその時、彼女が言った。
「これからも、いい友達でいましょうね。お仕事、がんばってね。きっと、私のことなんか、すぐ忘れるよ」
その言葉の意味を、しばらく考えていた。
たしかに、今すぐ結婚するのは無理だ。
そして、京都と新潟に離れ、今後、私も彼女にも、どんな出会いや生活が待ち受けているか、まったく分からない。
いい友達でいられるかどうかも、正直分からないなぁ、と思いながら、カクテルを飲んでいた。
彼女の言葉に、
「美佐ちゃんも、元気で」
としか、私は言うことができなかった。
その後、父親が厳格な彼女の家まで送り、一人下宿に帰った。
翌日、京都駅から新潟に向かってから十年以上が経っていた。
就職してしばらくは、彼女のことを思い出し、手紙を書いたこともある。
しかし、三年ほどして仕事が面白くなり、いろんな出会いがある中で、次第に、彼女が言った通り、その存在を忘れるようになった。
弘子ちゃんから、年賀状で彼女の結婚を知らされた時も、もうじき三十だ、それも当然だろうくらいの思いだった。
しかし、死は、別の問題だ。
しばらく、茫然としていたと思う。
気を取り直して、一階の松之山に降りようかと思ったが、食欲がわかない。
足は、市内でもっとも真っ当なシティホテルに向かっていた。
エレベーターで、バーのある最上階に上がった。
バー「マウンテン・パス(峠)」のドアを開け、カウンターのスツールに腰かけると、バーテンダーの吉田さんが驚いていた。
滅多に日曜には来ないし、来るにしてももっと遅い時間のナイトキャップだったから、驚くのも不思議はない。
まだ、客は誰もいなかった。それは、私にとって好都合でもあった。
私は、「ならず者(Desperado)」のCDを持参していた。

吉田さんに、大学時代好きだった女性が亡くなったこと、二人でイーグルスのコンサートに行ったことを話し、そのCDをかけてもらうようお願いした。
そして、カクテルも、そのバーで初めて頼む、テキーラ・サンライズをお願いした。
天井のBOSEから、まず、 "Doolin-Dalton" (ドゥーリン・ドルトン)が流れてきた。
あのコンサートの情景が、目に浮かんできた。
吉田さんが、オレンジ色に輝くグラスを私の目の前に滑らせた。
一口のみ、あの別れの日を思い出す。
そして、あくまで、あの時は、一時の別れだと思っていた。
しかし、その夜のテキーラ・サンライズは、もはや会うことのできない別れの味だった。
四曲目、♪テキーラ・サンライズが流れてきた。
また、コンサートの光景が浮かんだ。
後半の歌詞を、心の中で口ずさんでいた。
【Take another shot of courage
もう少しだけ勇気があれば
Wonder why the right words never come
なぜ、ちゃんと言うことができなかったんだろう】
勇気のなかった自分が、惨めだった。
目の前のグラスを見た。
このカクテルは、グラスの中に夜明けの情景を描いた、とも言われている。
その夜明けを、美佐江と一緒に見ることことはなかった。
ある意味、真面目すぎたのかもしれないし、だだ臆病だっただけかもしれない。
歌詞のようにお代わり(another)することなく、あの時の自分と、美佐江の思い出に、一杯のカクテルで別れを告げ、アパートに戻って、松之山の暖簾をくぐっていた。
松之山の親父さんにも奥さんの禎子さんにも、美佐江のことは話さず、なんとか平常の姿を取り戻そうとしていた自分が、三十年余り前、松之山のカウンターにいた。
昨年、美佐江の三十三回忌で女子部の数名がお寺に法要に行ったと、弘子ちゃんからLINEの連絡があった。
年賀状を眺めながら、コロナで途絶えていたが、今年はなんとか同期会で、文字通りに同じ釜の飯を食った仲間と会いたいと思っていた。
できれば、遅ればせながら、美佐江の墓に線香をあげたいとも思っている。
日本に帰って過ごした一時期を思い出します。イーグルスはまさにカリフォルニア、夢見心地にさせられたました。
事実を脚色してはいますが、彼女の訃報を聞いた時に、なんとも言えない虚しさを感じました。
そして、あの時に勇気があれば、という思いと、イーグルスの歌が重なったんです。
なんとか、この「小説のようなもの」を復活できた良かったです。
