戸谷洋志著『原子力の哲学』より(6)
2024年 05月 31日

戸谷洋志著『原子力の哲学』
ハンナ・アーレントの章から少し時間が空いたが、戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から六回目。
本書の目次。
□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ
「第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース」の初回。
冒頭部分を、引用。
本書で取り上げる哲学者の多くは、原子力を主題としながらも、それをあくまでも一つの各論に位置づけている。もちろん、それ自体が本書にとって大きな問題であるわけではない。しかし、これに対して原子力こそを自らの中心的な研究対象とした稀有な哲学者が、本章で取り上げる、ギュンター・アンダース(1902-1992年)である。
フッサールのもとで哲学を学び、ハイデガーからも大きな影響を受け、そしてアーレントの最初の結婚相手でもあったアンダースは、第二次世界大戦中の広島・長崎への核攻撃に大きな衝撃を受け、ここから現代社会が直面している脅威を多面的に分析し、優れた著作を残した。主著『時代おくれの人間』(第一巻:1956年/第二巻:1980年)はそうした彼の思想を集約する代表作であるが、その中心に位置づけられている問題こそ、原子力に他ならない。
アンダースは、1906年生まれのアーレントの四つ上。
1929年に二人が結婚した時は、アンダースが27歳、アーレントは23歳だった。
引用を続ける。なお。文中の「アフォリズム」とは、物事の真実を簡潔に鋭く表現した警句、金言、箴言のことだ。
アンダースの著作の多くは非体系的に綴られている。彼は論理的な整合性に固執するのではなく、自分自身のさまざまな体験を契機としながら、アフォリズムの形式によって叙述することを好んだ。それはふとした断想であることもあれば、学者との議論の一部や、身近な人との日常的な会話を切り取ったものでもあるし、場合によっては彼による完全なフィクションの物語であることさえある。そうしたアフォリズムは、体系的に配置しようとすれば異なる階層に属する問題、たとえば美学・倫理学・認識論・存在論などを並列させ、自在に横断してしまう。こうした表現方法に基づくゆえに、原子力をめぐる彼の思想もまた、際立った異彩を放っている。
著者は、アンダースは、ヤスパースと似た発想を取りながらも、少し違う角度から核兵器の独自性を説明すると指摘している。
本書で傍点の部分を太字にする。
すなわち彼によれば、核兵器はそれ以外のあらゆる道具とは異なり、原理的にどのような目的によっても正当化されえない道具なのであり、ここに核兵器について思考しなければならない理由がある。
つまり、道具が使われるとき、その使用は、目的が正当化されるとき、使用が正当化される。
拳銃は殺人のために使用されることは正当化されないが、自分の身を守るための使用は正当化される(かもしれない)。
しかし、アンダースによれば、核兵器はこうした仕方で正当化されうる「手段」ではない。アンダースは次のように述べる。
核兵器はなぜ手段ではないか。
「手段」という概念には、目的を「媒介しつつ」目的のうちに吸収され、
道が、目的地で終わるように、目的において手段は終わり、目標に達すれ
独自の「重要なもの」という意味を失うということが含まれている。
ーこれは核兵器にもあてはまるだろうか。
あてはまらない。
なぜか。
核兵器は、独自の「重要なもの」という意味を失わないからである。
それを失わないのはなぜか。
絶対的に大きすぎるからである。
「絶対的に大きすぎる」とはどういう意味か。
それは、核兵器が投下されれば、その最小限度の効果でも、人間によって
設定されるどれほど大きな(政治的、軍事的)目的よりも大きく、「効果
が目的を超え」て、効果はいわゆる目的より大きいばかりか、一切の目的
設定を疑わしいものとすると予測され、手段の今後の使用を疑わしいもの
とし、手段-目的の原理そのものを消し去るということ。
こういうものを「手段」と呼ぶのはばかげているだろう。
(『時代おくれの人間(上)』)
アンダースによれば、核兵器を手段として何らかの目的を達成しようとしても、核兵器はその目的そのものを破壊してしまうために、もはや手段という性格を維持することができない。たとえば、ある国が別の国と敵対し、自国を防衛するための核兵器を使用したとしよう。すると、敵対国やその同盟国からも核兵器を使用され、戦闘は核戦争へと発展する。しかし、核戦争によって自国に核攻撃が加えられれば、当然のことながら自国には途方もない損害が生じる。そしてその損害はもはや当初の目的であった自国の防衛そのものと矛盾するものになる。それどころか、損害は際限なく増大していき、やがて人類の絶滅にまだ至る可能性がある。当然のことながら人類の絶滅と引き換えにできる人類の目的など存在しえない。したがって核兵器の使用は、何を目的にしているのだとしても、手段としては正当化されえないのである。
核兵器の使用は、目的の達成どころか、防衛という目的の対象である自国そのものの破壊につながる、ということだ。
そうならば、核兵器の使用は、目的で正当化される手段となりえない。
また、拳銃には、射程距離がある。
では、原爆、水爆は、どうか。
危険な範囲の外なら安全、などという道具ではないのだ。
「絶対的に大きすぎる」ということは、そういう意味だろう。
次回は、核実験に関するアンダースの見解をご紹介したい。
アメリカがウクライナに供与する武器の、ロシア領内での使用を認めたというニュースがあった。
ロイターの日本語版から引用。
ロイターの該当記事
米供与の兵器でロシア領内攻撃、バイデン氏が容認 ハリコフ国境限定
By Steve Holland、 Humeyra Pamuk
2024年5月31日午前 8:09 GMT+93時間前更新
[ワシントン/プラハ 30日 ロイター] - バイデン米大統領はウクライナに対し、米国が供与した兵器でロシア国内を攻撃することを一部容認したことが分かった。米当局者が30日、明らかにした。ロシア軍が攻勢を強めるウクライナ北東部ハリコフ周辺との国境地域に限り認めたという。
バイデン氏はこれまで米国の兵器を使ったロシア領への攻撃を認めない姿勢を崩しておらず、方針転換となる。
同当局者は「大統領は最近、ウクライナがハリコフ地域で米国が供与した兵器を反撃目的で使用可能にするよう指示した。ウクライナを攻撃している、もしくは攻撃の準備をしているロシア軍に反撃できるようにするためだ」と述べた。
ロシアは今月に入りハリコフへの攻撃を強めている。北大西洋条約機構(NATO)加盟国は米国に対し、こうした攻撃に使われているロシア領内のミサイル発射装置や軍事拠点をウクライナが西側の兵器で攻撃することを認めるよう求めていた。
一方、米国防総省は先に、ロシア領内への攻撃に米国の兵器が使用されることに反対する政府の方針に変更はないと表明。シン報道官は「われわれがウクライナに提供する安全保障支援は同国内で使用するもので、ロシア領内での攻撃を促したり、可能にしたりしない」と述べていた。
限定的な使用、など可能なのだろうか。
また、アメリカが供与している武器の中には、劣化ウラン弾も含まれる。
中東戦争で、兵士のみならず、そのチリを吸うことで、内部被曝被害が拡大した。
戦争は、最初の一発の銃弾が打たれたら、それ以降、止めることが極めて難しくなる。
限定的という当初の決め事は、今後、なし崩しに拡大する危険性が高い。
どんな状況にあろうと、戦争を拡大する方向に舵を取ることは、間違いである。
日本は、停戦の仲介役になるべきなのに、ただ、盲目的にアメリカに追従している。
現代の哲学者は、果たして、どんな言葉、主張をしているのだろうか。
本書を紹介する中で、そんな思いが強くなる今日この頃だ。
