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「和田塚」で思い出す、北条と三浦の争いのこと。


 テニス合宿場所は、江ノ電の「和田塚駅」の近く。

 土曜夜は一駅隣の鎌倉駅前のカラオケに行くのに、和田塚駅から江ノ電に乗ったことをご紹介した。


 「和田塚」の名は、あのNHK大河「鎌倉殿の13人」でも重要人物の一人だった、和田義盛の最期の地、ということで名付けられた。


 鎌倉市観光協会による「鎌倉観光公式ガイド」のサイトから、「和田塚」の写真と説明文を拝借。
「鎌倉観光公式ガイド」サイトの該当ページ

 和田塚

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江ノ電「和田塚駅」から海岸方面へ少し行くと、左側に石垣が積まれた一段高くなっているところに、20基あまりの五輪塔が並んでいます。ここが「和田塚」で、北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として伝承されています。和田塚に近い由比ガ浜一帯は、和田合戦の主戦場となった場所です。

この塚はもと「無常堂塚」と呼ばれていましたが、1892(明治25)年、新しい道をつくる道路工事のとき、塚の一部から埴輪や土器の破片のほか、多数の人骨が掘り出されました。このとき、人骨は和田合戦で敗れた和田義盛一族のものといわれました。また、塚の上には「和田一族戦没地」の碑も立っていますが、和田一族との関係は無いようです。実際は向原古墳群の円墳の一つだったと思われますが、現在は周囲に石垣が築かれ、上部も平らに削られて古墳の形はなく、地中にはこのあたりの出土品などが集められて埋められているようです。

和田義盛は、三浦の豪族三浦大介義明の孫にあたり、頼朝の伊豆挙兵以来、頼朝の側近として仕え、のちには侍所の長官である別当として権力をふるいました。しかし頼朝の死後、執権として勢力をのばしてきた北条義時のため、一族が滅ぼされる結果となりました。

 これが、googlemapで、「和田塚」「わかみや」「由比ガ浜」が含まれる地図。
googlemapの該当地図

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 「和田塚」には、以前の合宿の際、日中に立ち寄っている。

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永井路子著『源頼朝の世界』(朝日文庫)

 以前、永井路子著『源頼朝の世界』を紹介する中で、和田義盛が亡くなることになった「和田の乱」(「和田合戦」)についても引用した。
2022年3月17日のブログ

 再度、どんな戦いの結果、義盛が亡くなったのか、確認したい。


 義盛は、和田姓を名乗っているが、三浦氏の一族。

 三浦氏の系図の一部を確認。

 三浦為継
   |
 三浦義継
   |
 三浦義明
   |
   |----------------------------------------
   |     |     |
 杉本義宗  三浦義澄  娘------------畠山重能
   |     |        |
 和田義盛  三浦義村    畠山重忠
 (1147生)   (1168生?)     (1164生)

 ちなみに北条義時は1163年生まれ。


 義明亡き後の三浦氏の総帥であった義澄は、でしゃばらない人物であった。
 あえて自分ではなく、亡くなった長男の子、和田義盛が侍所の別当に抜擢されたのは、義明の勲功にもよるが、義澄のそんな性格を反映していたのだろう。もちろん、三浦一族のためのしたたかな計算はあってのことかとは思う。

 彼が自ら大役を務めることになったのが、あの1192年のこと、
 頼朝が念願かなって征夷大将軍になったが、京都から来た使からその辞令を受取る晴れの大役をつとめたのは義澄だった。
「千万人ノ中、義澄此役ニ応ズ。面目躍如」
 と『吾妻鏡』は書いている。

 その義澄は、正治元(1199)年に頼朝が死去した後、二代将軍の源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。
 つまり、「鎌倉殿の13人」の一人、ということ。

 その翌年、梶原景時の変で景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた三日後に病没した。享年七十四。

 まず、その義澄の子、義村について。

 義澄の子義村は父に似ぬやりてだったらしい。彼の時代になると、俄然北条氏との対立が露骨になる。それというのも、拮抗した勢力を保ってきた諸豪族が、次から次へと、権力争いで脱落していったからでもある。たとえば、比企、畠山、梶原などがその例だが、機を見るに敏な義村は、いつも体制側に手を貸して勢力を伸ばしてきた。力の弱いほうに味方するようなヘマは決してしなかったのだ。
 こうして強豪が消えてゆくと、残るのは北条と三浦だけになり、両者は否応なしに対決に近づいてゆく。

 比企一族が、比企の乱で誅殺された。。
 畠山重忠は、元久二(1205)年に亡くなっているが、そのきっかけは、前年11月に、重忠の息子の重保が北条時政の後妻の牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争ったことだった。牧の方が重忠を許さず、時政に頼んで、討伐させた。
 女は・・・怖い。

 北条は、ことごとく敵を消してきた。残るは三浦のみ。

 義村はしかし、なかなかの策師である。何度かその機を捉えはするが、見こみがないとわかると、さっと手を退く。感情にまかせての玉砕戦法などは決してとらないのだ。この点、現代の日本人よりもずっと粘り強いし、読経もすわっている。
 彼と北条との息づまるような対決をいくつかひろいだしてみよう。一つは和田の乱である。これは一族の和田義盛が北条氏に武力対決を迫った事件だ。北条側が義盛を挑発したのが原因だと言われているが、三浦側でも意識的に挑発に応じた気配がないではない。和田義盛は三浦一族には珍しい一本気な劇場型の人間だが、彼の行動を追ってみても一時の怒りにまかせての爆発ではなく、かなり綿密な動員計画をたてている気配が窺える。
 もちろん、義村は、義盛と事前の打合せはしていたらしい。が、合戦が始まり、北条方に分があると見ると、義村は義盛を見棄てて、北条方についた。肉親の情に駆られていとこを助けるよりも、まず一族の保全を計ったのである。義村に裏切られた義盛は、まもなくむざんな死を遂げた。

 「鎌倉殿の13人」では、義澄を佐藤B作、義村を山本耕史、義盛を横田栄司が演じた。
 ちなみに、昭和44(1979)年の大河「草燃える」では、義盛を伊吹吾郎が演じた。


 私は、推論に推論を重ねた結果として、義時と八重の淡い恋物語になってしまったことに嫌気がさし、「鎌倉殿の13人」は途中で見るのをやめた。

 
 北条義時は、決して鎌倉武士を代表する人物とは思えないし、描き方にもよるが、大河の主人公になるような人物ではないように思っている。

 ともかく、周囲の敵を陰謀、挑発などを駆使して、やっつけるのが義時、というイメージ。

 和田の乱も、ほぼ間違いく北条の挑発に義盛がまんまと乗った、ということだと察する。


 テニス合宿の宿舎の近くの「和田塚」から、鎌倉時代の、血なまぐさい権力闘争のことを思い出したのであった。
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by kogotokoubei | 2024-05-27 12:54 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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