戸谷洋志著『原子力の哲学』より(5)
2024年 05月 20日

戸谷洋志著『原子力の哲学』
戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から五回目。
本書の目次。
□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ
□おわりに
「第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント」の、最終回。
公的領域(=世界)において異なる考えをもつ他者の存在を重要と考えるアーレント。
アーレントは、その複数性を根こそぎ破壊するからこそ、原子力エネルギーによる核攻撃に反対する。
そして、その危険性に満ちた状況で、奇跡を期待させるのは、まさに、公的領域への新たな生命の参加であるとアーレントは指摘する。
ちょうど関連した出来事があったので、エネルギー基本計画を見直し原発依存度を高めようとする国や経済界の策略に対し、多くのNGOや市民活動組織が反対の声を上げていることに、救いを求めたいという記事を挟んだ。
あらためて、本書から引用。
市民としての対話
原子力時代において公的領域が実現するためには、人々が原子力について自由に語り合うことが可能でなければならない。そこで議論されるべきなのは、単に原子力に関する科学的・技術的な問題だけではなく、それが私たちの歴史にどのような意味をもち、そして私たちはそれをどのようにあ扱うべきなのか、という問題でもある。こうした議論は、原子力の専門家としての科学者だけではなく、すべての市民に開かれていなければならない。アーレントは次のように述べる。
物理学者は、原子核の操作が途方もない破壊力を秘めているのを
十二分に自覚しながらも、その方法を知るとすぐさま、ためらい
なく核分裂に取りかかった。この単純な事実は、まさに、科学者
としての科学者は、地球上に人類が生きのびるかどうか、ひいて
は地球そのものが存続するかどうかについてすらまったく気遣って
いないことを証明している。「原子力の平和利用」のためのすべて
の市民連合、この新しい力を賢明に利用せよというあらゆる警告、
さらにはヒロシマとナガサキへの最初の原爆投下の際多くの科学者
が感じたあの良心の呵責ですら、いま述べた単純な初歩的な事実を
無視できない。というのも、科学者は、右のような運動に加わる
ときはいつも、科学者としてではなく市民として振る舞うからで
あり、かりにそこで科学者の声に素人以上の権威があるとしても、
それは、科学者がより正確な情報を得る立場にいつからにすぎない。
(『過去と未来の間ー政治思想への8試論』)
アーレントによれば、科学者が科学者として原子力について考えるとき、その思考からは倫理的な判断が排除されることになる。それは、核分裂が恐ろしい危険性をもっていると知りながら、その研究が推し進められたという歴史にも反映されている。しかしアーレントがここですべての科学者がいつでも倫理的な判断を下せない、と主張しているわけではないことは注意されるべきだ。なぜなら、科学者もまら「良心の呵責」を抱き、反核運動に参与しているからである。ただしその際に科学者たちは「科学者としてではなく市民として」振る舞っているのである。
科学者は、科学者として振る舞うこともできるし、市民として振る舞うこともできる。言うまでもなく、「科学者といえども同胞の市民と同じように、感官による知覚、共通感覚、日常語からなる世界のうちうで生の大半を送っている」(『過去と未来の間ー政治思想への8試論』)からである。そして原子力をめぐる自由な議論は、あくまでも市民として振る舞う人々の間で形成される。
私は、この部分を読んでいて、高木仁三郎さんのこと、なかでも遺書に近い書籍『市民科学者として生きる』を思い出した。

1999年9月20日付けで岩波新書で発行されたこの本は、高木さんが抗癌剤治療のために癌研究所付属病院に入院していた同年3月から5月の二ヵ月の間に、病院のベッドの上で書かれた。
3.11以降、高木さんの著作を貪り読んだことを思い出す。
本書に戻る。
著者は、アーレントが原子力をめぐる議論については、「論証によって真偽の決着がつくものではありえない」「この答えの真理性は、科学的言明の強制的な妥当性というよりも合意の妥当性に近い」(『過去と未来の間ー政治思想への8試論』)と考えていることを紹介している。
原子力をどう扱うべきかについて、あるいは原子力が人間の歴史において何を意味するかについて、計算に基づいて絶対的で排他的な答えを出すことなどできない。だからこそ科学的な方法に基づいてこの問題について議論することはできない。しかし、だからといってそれは、この問題に対して誰もが同意できるような一般的な答えを導き出すことができない、ということを意味するわけではない。市民的な議論とは、そうした「合意の妥当性」をもった答えを導き出し、すべての人々がその答えに自発的に同意できることを目指す対話のあり方に他ならないのだ。
アーレントがそう明言しているわけではないが、ここには原子力時代における公的領域の一つの可能性が示されているように思える。人々は対等な市民として議論の場に参加し、そこでは専門家であっても絶対的な権威をもたないからだ。もっとも、それが公的領域の範型的な姿にまで成熟するためには、議論に参加する市民は自分の私的利害を超えて語り合うことができなければならない。それが原子力の問題に関する議論であるなら、そこにおいて私たちは、自分が生き残れるがどうかに執着することなく、公共性の視点から考えることができなければならないだろう。そうした議論の場を存続させること自体が、原子力時代の脅威への抵抗として理解できるのである。
「論証による決着」ではなく、「合意の妥当性」が原子力をめぐる議論のあるべき姿だという指摘は、重要だと思う。
原発に関しても、賛成・反対の二者択一的な議論ではなく、まず、将来の国のあるべき姿を描き、そこにどう進んでいくかという点で、合意の妥当性を追い求めるばきなのだろう。
「まとめ」で著者は、アーレントの師であったヤスパースにも触れながら、こう結んでいる。
原子力をめぐるアーレントの思想の大きな特徴は、生命への脅威ではなく、自由への脅威に注目していることである。この点で、あくまでも核兵器の脅威を生命への脅威に限定させたヤスパースと、彼女は対照的である。私たちが、核兵器によって何人の人間が死ぬのか、ということだけに目を奪われている限り、私たちが自らの自由を発揮しうる世界の砂漠化は着々と進行していく。状況は着々と深刻化していき、それに対して何の働きかけもしない限り、現実の改善を期待することはできない。これに対してアーレントは、公的領域における人間の活動が奇跡の様相を帯びるものであり、現実の趨勢を変える力があると考える。こうした、人々の対話によって核兵器の脅威に抵抗しようとする態度は、ヤスパースのそれと通底している。と考えることもできるだろう。
ヤスパースに限らず多くの人は、核兵器の脅威を、生命の脅威に結ぶつけることだろう。
日本人ならなおさら、ヒロシマ、ナガサキの惨劇からそう思うに違いない。
アーレントは、それを承知の上で、自由への脅威を忘れるな、と言っているような気がする。
なぜなら、公的領域(=世界)は、他者の存在こそが最重要であり、私的利害を捨て、勇気をもって市民として公的領域に参加し、自らの意見を述べ、他者の意見に耳を傾けることこそが自由であると考えるからだ。
ナチスから逃れてアメリカに渡ったアーレントには、思ったことを言える自由が、何より価値のあるものだったのだ。
このアーレントの考え方は、以前の記事へのコメントをきっかけに昨日紹介した「天声人語」の中のネルソン・マンデラの信条とも通底している。
南アフリカの言葉である「ウブントゥ」を、マンデラは信じていると他の活動家が言った。
ウブントゥには、「あなたという人間がいるから、私が人間でいられる」という意味があり、寛容さや助け合い、許しの概念を指しているとのこと。
まさに、アーレントの考え方と近いではないか。
あらためて、いただいたコメントに感謝するばかり。
次回は、第三章から、アーレントの最初の結婚相手ギュンター・アンダースについて紹介したい。
