戸谷洋志著『原子力の哲学』より(3)
2024年 05月 15日

戸谷洋志著『原子力の哲学』
戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から三回目。
本書の目次。
□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ
□おわりに
引き続き、「第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント」から。
前回、アーレントが「私的領域」と「公的領域」とに区別した上で、公的領域は政治的な領域であり、私的利害を捨て、生命を賭ける勇気がある者だけが迎え入れられる、と考えていることを紹介した。
そして、アーレントの考える「世界」とは、その公的領域だった。
その公的領域という人工的な世界も、地球の自然という素材の提供を受けて成り立っている。
しかし、そういう世界を根本的から揺り動かすものが、原子力、アーレントの言葉による「宇宙エネルギー」であると主張していた。
その後について本書から。
アーレントにとって決定的に重要であることは、こうした世界のあり方の変容であって、それによってもたされる死傷者の数ではない。彼女は次のように述べている。
最初の原子爆弾について知ったときに人類を襲った恐怖は、宇宙から
やって来た、文字通り超自然的なエネルギーに対する恐怖だったので
ある。建物や大通りが廃墟と化した範囲も殺戮された人命の数すらも
妥当なものだと思われるのは、ひとえに、超弩級の死と破壊を解く放
つことで、この新発見のエネルギー源がその誕生の瞬間からゾッとす
るほど強烈な象徴的パワーになっていたからなのである。
(『政治の約束』)
アーレントによれば、広島・長崎への核攻撃は確かに世界中に「戦慄」を呼び起こしたが、その戦慄は、核攻撃によってもたらされた死傷者の数によって生じたのではなく、原子爆弾によって宇宙の力が地球上にもたらされ、その「超ー自然的な力」によって世界の確かさが揺るがされたことによって生じたのである。こうした主張は、原子力をその威力の大きさにおいて革新的なもとの見なすアンダースと、鋭く対立しているといえるだろう。
第三章のギュンター・アンダースに関しては、アーレントの後にご紹介するつもりだ。
上記の紹介だけでは誤解を招きかねないので、もう少しこの後も引用する。
もちろん、核兵器による壊滅的な被害が過小評価されているわけではない。アーレントは、核戦争が勃発すればとてつもなく巨大な破局が引き起こされると指摘し、その脅威に直面することによって、「歴史の中にはほとんど記録も記憶もされていないが、恐らく近代史上で初めて武力=暴力〔violent〕行動に固有の限界が踏み越えられた」と述べている。ここでいう「限界」とは何だろうか。アーレントによれば、それは、「暴力によってもたらされる破壊はつねに部分的なものでなければならず、その影響が及ぼされるのは世界の一定部分に限られ」ており、「けっして国民全体とか民族全体を根絶やしにしてはならないということ」に他ならない。
日本に対して行われた核攻撃が如実に表しているように、核戦争は必然的に無差別虐殺の様相を呈し、投下された地域に存在するすべての生命を抹殺してしまう。これに対して、20世紀以降、直接戦争に参加する戦闘員と、戦闘には参加しない一般市民としての非戦闘員は厳密に区別され、後者を不可侵と見なすことは、戦時においても基本原則とされてきた。しかし核攻撃は、それが戦闘員と非戦闘員の区別のない無差別虐殺を引き起こす限りにおいて、こうした近代的な戦争の「限界」を撤廃させるものなのである。
ただし、原子力が革新的であるのは、前述の通り、それが政治の条件であるところの世界を揺るがすという点にあり、その視座は核攻撃の分析においても変わらない。すなわちアーレントによれば、それによって失われるのは人命である以上に、「人間同士の関係性から創られる活動(アクション)と言論(スピーチ)の世界なのである」。言うまでもなく、街が破壊され、そこに住む人々の多くが殺害されれば、もはやそこで人々が言論を交わし合い、新しい活動を始めることはできなくなってしまう。原子力はそうした仕方で世界そのものを破壊し、公共性そのものを掘り崩すのである。
前述の通り、世界は人間が複数性を維持しながら関係することを可能にする。その世界が失われる、ということは、人間が複数性をもって関係することができなくなる、ということを意味する。それは自分以外の見方や意見に出会うことができなくなる、ということの他ならない。
もちろん、核攻撃によって多くの死傷者が出ることは、許されることではない。
しかし、もっとも許されないことは、本来限定的であるべき近代的な戦争の「限界」を超えた核攻撃は、複数の人間が固有の意見を述べ合う公的領域(=世界)を、破壊することだ、とアーレントは主張しているのである。
「活動」も「言論」も奪われることこそが、非難されるべきである、ということだ。
アーレントは、そのような事態について、世界から「リアリティ」が失われていく過程として説明している。
彼女が考える「リアリティ」とは、人々が複数の視点から眺め、それに対してさまざまな意見を語ることができること。
他者の存在があって、初めて、そこにリアリティが存在する、という考え方だ。
著者、アーレントの著作を踏まえ、次のように記している。
「今まで現れていた世界の一側面」が失われる、ということは、「私」以外の、「私」とは違った視点から世界を眺める他者を失ってしまう、ということである。しかしそうした他者の存在こそが、この世界が夢ではなく現実であるということを保証しているのだ。
そして、アーレントは、世界を失うのは、核攻撃を受ける側だけではなく、核攻撃を仕掛けた側も同様、と考える。
『政治の約束』から、著者が引用する。
「絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもある」
そして、アーレントは、核攻撃後の世界を、次のように記している。
もし戦争がもう一度絶滅戦争になるとするなら、ローマの時代から実践されてきた、とりわけ政治的な本質を有する外交政策は消滅してしまうだろうし、さらに国家間の関係は法も政治も知らない広漠らる空間に退行し、世界は破壊されて、あとには砂漠が残されるだろう。なぜなら絶滅戦争において破壊されるのは、敗北した敵側の世界をはるかに越えるものだからだ。
アーレントにとって重要なものは、さまざまな意見を持つ他者が存在する世界(=公的領域)であり、それを根こそぎ破壊するから、核攻撃に反対するのである。
思うに、核攻撃がなくても、意見を異にする他者の存在をなきものとする政治は、世界を破壊するものではないか、ということだ。
政治資金規正法改正についても、野党の案に見向きもせず、企業献金を維持しようとし、パーティー券についてもせこく公開基準を10万円にしようとする自民党にとって、異なる意見をもつ他社の存在は、邪魔でしかないのだろう。
アーレントの考えに立てば、それは公的領域(=世界)の存在基盤を否定する行為ではないのか。
南の島での軍事基地建設の現状や、原発再稼働の動きを見ても、地元住民の方の意見は、貴重な他者の存在を物語るものである。
私的利害を捨て生命を賭けて公的領域に参加する人間ならば、その他者の意見こそ貴重なものであるはずだ。
全体主義の研究で高く評価されるアーレントは、他者が存在する世界こそ重要、と考える。
歴史が過去の同じ過ちを繰り返さないように、という思いも強いはずだ。
次回も、同じ章から、もう少しアーレントの哲学を確認したい。
今朝の朝日新聞の一面は、介護保険料の値上がりだった。
65歳以上の高齢者が支払う介護保険料が4月に見直されて、2024~26年度の基準額の全国平均は月額6225円となった。
2000年の導入当初からは、倍。
昨日のアルバイトの昼休み、所長は久しぶりの休みで不在だったが、72歳の調理師の方が、施設の管理栄養士によって変更になった、贅沢メニューについて、こぼしていた。
「これじゃ、町のレストランだよ」
12日の「母の日」メニューは、パエリア・ミックスフライ・コーンポタージュなどで、手間暇もかかったらしい。
そして、4月から、施設から委託されているバイト先の企業への支払いが少し増えたからだ、と小さな声で言った。
しかし、調理師の給料も我々バイトの時給も、まったく上がってはいない。
介護保険は、循環して、介護の現場で働く人々へも回るべきもののはず。
食材の値上がりも相当だから、会社も大変だとは思うが、もう少し現場の報酬も上げないと、人出不足は解消されないだろう。
そういった介護の実態に、日本の政治は、まったく目が向いていない気がする。
