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戸谷洋志著『原子力の哲学』より(2)


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戸谷洋志著『原子力の哲学』

 戸谷洋志著『原子力の哲学』(集英社新書、2020年12月初版)から二回目。

 本書の目次。

□はじめに
□第一章 原子力時代の思考ーマルティン・ハイデガー
□第二章 世界平和と原子力ーカール・ヤスパース
□第三章 想像力の拡張ーギュンター・アンダース
□第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント
□第五章 未来世代への責任ーハンス・ヨナス
□第六章 記憶の破壊ージャック・デリダ
□第七章 不可能な破局ージャン=ピエール・デュピュイ
□おわりに

 引き続き、「第四章 世界の砂漠化ーハンナ・アーレント」から。

 前回は、著者によるアーレントの紹介を中心に引用した。

 アーレント自身のメッセージを紹介するにあたっては、背景として、彼女の基盤となる考え方を知る必要がある。

 著者は、アーレントの『人間の条件』に基づき、アーレントは、政治の条件を明らかにするために、古代ギリシャにまで遡り、人々が生きてきた空間を「私的領域」と「公的領域」に区分していると説明する。

 引用する。

 私的領域とは、「家族の維持に係わる活動」が行われる空間として特徴づけられる。そこは家族が共に住み、生計を立て、毎日の生活を営む場である。アーレントによれば、「人々が家族の中で共に生活するのは、欲求や必要によって駆り立てられるから」であり、言い換えるなら、私的領域とは人々が私的利害を追求する場である。だたし、そうした「欲求や必要」は人間が自分で選んだものではないのだから私的領域において人間は必然性に支配されており、自由ではない。すなわち、「家族という自然共同体は必要〔必然〕から生まれたものであり、その中で行われるすべての行動は、必然〔必要〕によって支配される」のである。
 これに対して、公的領域は「ポリスの領域」であり、活動が行われる場として特徴づけられる。ポリスとは、紀元前10-前8世紀に現れ始めた、古代ギリシャにおける君主制に対立する国家形態である。その特徴は、自由と自治を理想とし、奴隷から区別された市民による集会によって国家の意思決定が行われたという点にあり、そうした民主的な気風は紀元前5世紀頃のアテネで最盛期を迎える。ただしアーレントによれば、こうしたポリスの民主的な議論に参加することを許されたのは、ポリス全体のことを考えられる者、つまりすべての市民にとっての利害を考えられる者に限られていた。言い換えるなら、自分自身の利害を乗り越え、つまり私的利害から自由になれる者だけが、市民であることを認められたのである。公的領域はこの意味において自由な空間として性格づけられる。

 著者によれば、アーレントは、上述した公的領域のあり方を「世界 world」と呼んでいた。
 
 ここでいう世界とは、諸国家の総体を指しているのではなく、ポリスがそうであるような、人々が生活するために整備された環境であり、建物や道で構成された人工的な空間である。たとえばポリスの市民は、互いに異なる意見をもちながらも、同じポリス=世界に生き、その世界を介在させることによって、他者との共生を実現していた。人々が議論するとき、それは必ず何かについて議論することになるが、その「何かについて」を提供するものこそ、世界に他ならないのだ。もし世界がなければ、人々は完全な孤独に陥り、もはや誰かと議論したり、意見の異なる他者と関係を結んだりすること自体ができなくなってしまうだろう。必然性によって結びつくのではなく、世界を共有することで結びつくということが公的領域における人間関係を支えていたのである。

 アーレントは、人はまず私的領域に属していて、自分の利害だけと追求しているが、そうした利害に囚われている限り、不自由であり、こうした私的利害を自ら放棄し、公的領域での自由な市民にならなければならない、と考えている。

 言い換えるなら、自分の生命に執着しなくなるということ、つまり自分の命を危険にさらすことを辞さない、ということを意味する。そうであるからこそ、ポリスにおいて活動する市民は称賛を集めたのだ。アーレントは、公的領域に参入するために発揮されるそうした徳を、「勇気」と呼ぶ。

  家を去るのは、最初は、ある冒険や栄光ある企てに乗り出すためであり、
  後には、ただ自分の生命を都市の問題に捧げるためであったが、いずれに
  しても、勇気を必要とした。なぜなら、自分の生命と生存をまず第一に
  保証できたのは、ただ家の中だったからである。政治的領域に入った者は、
  だれでも、まず自分の生命を賭ける心構えがなくてはならない。生命に
  たいして愛着しすぎれば、それは自由を妨げたし、それこそ奴隷のまぎれ
  もない印であった。したがって勇気はすぐれて政治的な徳となった。
  そして勇気をもつ者だけがその内容と目的において政治的である共同体
  に迎え入れられた。(『人間の条件』)

 私的領域から公的領域へと移行すること、すなわち「家を去る」ことは、「自分の生命を賭ける心構え」と必要とするのであり、そうした勇気をもつ者だけが「政治的である共同体」に迎え入れられる。そてに対して勇気をもたず、自分の生命に執着する者は、「奴隷」の烙印を押され、不自由なものとして軽蔑されたのである。

 現代の政治家に聞かせたい内容を、もう一度。

 “政治的領域に入った者は、だれでも、まず自分の生命を賭ける心構えがなくてはならない”

 それができず、私的利害にばかり執着している者は、奴隷なのである。

 さて、アーレントは、原子力について、どういう考えをしていたのか。

 自然の対するアーレントの考え方を含め、引用する。

 政治を可能にするのは人工的な世界であり、そして世界を可能してしているのは非人工的な自然である。この意味においては自然は間接的に政治をも条件づけている。この関係が確かなものであれば、政治の盤石さは一層信頼できるものになるだろう。すなわち、自然が世界のために必要な素材を安定して供給し、それによって世界が持続可能であれば、市民にとってその世界における名声の不死性は一層確かなものになり、その世界には新たな活動を呼び起こす余地が生じるだろう。
 しかし、原子力はそうした世界と自然の関係を変容させてしまう。アーレントは次のように述べる。

  こうした事柄すべてにおいて生じた変化は、原子エネルギーの発見があっ
  て、もっと適切に言えば、核エネルギーの反応過程で推進されるテクノロ
  ジーの発明があって、初めて可能になったのである。それというのも、
  ここで解き放たれるのは自然の過程ではないからだ。むしろ地球上で自然
  には生起しない過程が、世界を創ったり破壊したりするために地上にもた
  らされてくるのである。こうした反応過程自体は地球を囲む宇宙からやっ
  てくるのであり、いま人間はそれを自分のコントロール下に置くことに
  よって、もはや自然の生物としてではなく宇宙の中で自分の行く道を模索
  しうる存在としてーその存在は、地球とその自然が提供する諸条件の下で
  しか生存できないという事実があるにもかかわらずー振る舞っているのだ。
  この宇宙エネルギーは馬力とか他の自然な尺度では測ることができない。
  またそれは地球外の性質を持っているので、人間によって操られる自然過
  程が人間によって創られた世界を破壊するのと同じように、地球上の自然
  を破壊しかねない。(『政治の約束』)

 ここでアーレントは「核エネルギー」を「宇宙エネルギー」と呼び変えている。なぜなら、核分裂および核融合は地球の内部で自然には起こらない現象である、と考えられるからだ。そうした現象は、たとえば太陽のなかで起きているものであり、本来地球に馴染まないはずであって、そうした現象を強引に地球のなかに招き入れる技術が、原子力のテクノロジーなのである。その意味において、原子力はそれ自体が地球規模の確かさを揺るがせるものである。

 人工的な世界は、地球上の自然という素材の提供を受けて成り立っている。
 しかし、その地球、自然そのものを作り替えることを、この「宇宙エネルギー」は可能としている。

 そのことによって、アーレントが決定的に重要と考えることは何か、については、次回。

 
 アーレントによる「公的領域」から、どうしても現代のことを思ってしまう。

 彼女の考える公的領域は、政治的な領域であり、私的利害を捨て、生命を賭ける勇気がある者だけが、迎え入れられる。
 もし、その世界で私的利害にしがみついているのなら、存在する資格がない奴隷なのである。

 しかし、今日の政治的領域には、そういった奴隷ばかりが、市民の仮面をかぶって跋扈している気がする。

 古代ギリシャのポリスから、現代の公的領域は、なんと乖離してしまったことか。
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by kogotokoubei | 2024-05-13 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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