石井徹也さんを偲ぶ。
2024年 04月 25日
居残り会仲間のMさんから、石井徹也さんが亡くなったことをLINEで教えていただいた。
Wikipedia「石井徹也」によると、亡くなったのは3月21日だったらしい。私より、一つ年下だった。
Wikipedia「石井徹也」
Wikipediaに記されている、同じ事務所の和田尚久さんのXでの訃報がこちら。
石井徹也さんの訃報
本業は放送作家で、「笑っていいとも」なども担当していたようだ。
かつて、年に、50回~60回、落語会や寄席に通っていた頃、あの大きな体と、よく遭遇したものだ。
小満んの会でも、ほぼ毎回、見かけたなぁ。
石井さんは、『十代目 金原亭馬生ー噺と酒と江戸の粋』(2010年5月初版、小学館)という名著を残してくれた。

石井徹也編著『十代目 金原亭馬生ー噺と酒と江戸の粋』
2014年9月、末広亭での馬生三十三回忌追善興行に行った後で書いた記事で、この本から弟子たちの対談の引用などをしていた。
その記事では、目次も紹介していた。
2014年9月18日のブログ
あらためて、目次。
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十代目金原亭馬生~まえがき、そしてあとがきにかえて
一 酸いも甘いも金原亭馬生
—金原亭馬生一門話 その一 (昭和四十年代)雲助・馬生・朝馬
二 何で師匠が好きかといえば
—席亭から見た金原亭 新宿末廣亭・北村幾夫
三 不思議の国、馬生家
—父として子として 中尾彬・池波志乃
四 教えの基本は「綺麗と汚い」
—金原亭馬生一門話 その二 (昭和三十~四十年代前半)伯楽・今松・駒三
五 亡くなった師匠に、さよならのチュー
—金沢の馬生を語る 岡部三郎
六 十八番はあえて作らず
—馬生の主要演目鼎談 雲助・馬生・石井徹也
七 あの夜の料簡—立川談志インタヴュー
八 先代馬生の亡くなった日
—昭和五十七年九月十三日の池袋演芸場
終わりに~十代目金原亭馬生自筆エッセイ・川柳
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2014年9月15日に私は行ったのだが、座談会の後の抽選会で、石井さんも抽選に当たり、誰かの手拭か色紙をもらっていた。
入場の際にもらうプログラムに当りの印(○やら△など)があれば、噺家さんの手拭や、中尾彬の色紙などがもらえる仕組みだった。
私は、そういうものに当たったためしがない。
石井さんは、命日13日に席亭である湯島での古金亭で中尾・池波夫妻も招待して特別興行をしているし、本書を書いているなど、ほとんど馬生一門の身内のような方ではないかと思うのだが、やはりいただけるものはいただくのだなぁ、と思ったものだ。
その三年前2011年、馬生の命日の記事で本書から引用した。
2011年9月13日のブログ
有名な(?)馬生の名言に関する弟子たちの会話を、あらためて引用する。
「何でもいいんだよ」の真意
駒三 とにかく、物事を押し付けないというか、非常に淡白ですね。弟子に対しても淡白。
今松 ウチの師匠の有名な言葉といえば、「何でもいいんだよ」だから、ね。
伯楽 最後は「何でも」だけになっちゃったけどさ、オレはちゃんと真意を聞いてたよ。
「いいかい、酒の肴として海鼠腸(このわた)が出る。ホヤが出る。人によっては“こんな不味いものはねぇや”と思う人がいる。でも、それを食って旨いと感じる人もいる。“一品料理”として出せればいいんだ。お客様相手なんだから、喜ぶお客様がいて、“一品料理”として出せるものなら、芸でも、どんなもんでもいいんだ」そういう意味で「何でもいいんだよ」と言ってたんだよ、ウチの師匠は。
それは親父の志ん生師匠の教えもあったと思う。志ん生は言ってた訳でしょ。
「芸なんて、年に三、四回しか出来ないよ。寄席のお客は遊びにきてんだから。遊ばせなきゃダメだよ」
そういう意味で、とにかく「笑わせる」ということを大切にして、特に寄席では結構笑いの多いものを演っていたね。
また、ウチの師匠は人間的に「いい人」だったからね。非常に真面目な人だった。
駒三 優しいしね。
弟子たちの、貴重な思い出の記録だ。
同じ年の8月、「人形町らくだ亭」で聴いた五街道雲助『お初徳兵衛浮名桟橋』に関しても、同著から引用している。
2011年8月23日のブログ
末広亭の席亭北村幾夫さんの話だ。
圓生師匠の描写が凄いっていうけれど、圓生師匠は最後まで自分がいたから、どこまで行っても圓生しかいなかったんで・・・・・・。馬生師匠は自分がいつの間にか消えちゃう。高座に溶け込んじゃうみたいな・・・・・・ね。落語ってやっぱり視点を変えると凄い部分があって、それをこう、障子一枚、襖一枚の向こうに何があるかを見せる、その怖さは馬生落語にありましたね。
『お初徳兵衛』の最後、「いつまでもいつまでも・・・・・・」って馬生師匠が言うと、高座に、大川に浮かぶ船が見えたもんね。「ウチの高座。船着場だった?」ってくらい(笑)
たしかに、雲助の高座でも、大川に浮かぶ船が見えた、ように思う。
2012年10月の「人形町らくだ亭」で小満んが『忍三重』という珍しい噺を聴かせてくれた。
石井さんのコラムで、この噺の背景を知ることができた。
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柳家小満ん『忍三重』(しのびさんじゅう) (19:55-20:25)
事前にネットで調べたが、小満ん以外での口演記録を探すことができなかった。帰宅してから調べたところ、この人形町らくだ亭や芝大門のかもめ亭の音源などを販売している「落語の蔵」サイトの石井徹也さんの「らくご聴いたまま」というコラムで、昨年震災直後3月13日の小満んの会におけるこの噺について、次のようなコメントがあったのを発見。「落語の蔵」サイトの該当ページ
長谷川伸の作品に想を得たと伺えば、成程と納得。北前船中の小騒動なら『旅の里扶持』か映画『浮草』のような噺になり、駆落ち者から旅芸人、旅役者、門付けの独り芝居と変わった夫婦が『鎌倉山』の趣向で料理屋の板場に「泥棒芸(とでも言うか)」に入り、祝儀まで貰うに至る、という趣向尽くしのような一席。本格に下座を入れたら、更に風趣の増す噺になりそう。『歌行燈』や『佃の渡し』が聞きたくなる。---------------------------------------------------------------------
と言うことで、この噺は小満んの創作、ということが分かった。

河出書房新社サイトの該当ページ
Amazonの本書のページ
KAWADE夢ムック・文藝別冊の「永久保存版 古今亭志ん朝」では、「志ん朝の演目」を担当していた。
私は行く機会がなかったが、古今亭と金原亭への愛着は深く、「古金亭」という会には、居残り会仲間の何名かの方が駆けつけていた。
いろいろと病気もあったようだが、67歳での旅立ちは、早すぎる。
落語に関して貴重な記録や遠慮のない評論、落語会開催などで、まだまだ現役で活躍して欲しかっただけに、惜しまれる。
石井徹也さんのご冥福を祈る。
先代馬生師は懐かしくも早世したのが惜しい噺家でした。
ご本人は虚弱体質から長生きはできないと元から覚悟していたようですが…。
華やかさはともかく、個人的には弟君の志ん朝師よりも好みでした。
以前にもお伝えした記憶がありますが、先代の「笠碁」は絶品でしたね。
弟子・孫弟子を含めると、故・志ん朝一門よりも先代馬生師の流れのほうが期待できそうです。
雲助師が人間国宝となり、雲助師の弟子白酒師の一門も有望ですね。
雲助・さん喬・一朝一門の今後が楽しみですが、石井氏の早世は残念です。
馬生は病気のため固形物が喉を通らないので、酒で栄養を摂っていたことは他人は知らず、朝から酒を飲んでいるアル中のように思われていたようですね。
戦中には父が留守の間、美濃部家を守るために無理もしたでしょう。
そういった苦労を感じさせず、「何でもいいんだよ」と、今の落語会界の中核となる多くの弟子を育てたことは高く評価できます。
そういったことを石井さんは十分に知った上で、あの本を書いたのでしょう。
あの姿を見られなくなったのが残念です。
良くも悪くも落語と世間に対して厳しい人でした。(ご自分には相当甘かったようですが・・・)
大方の落語評論家が八方美人的な論評に終始する中、石井氏はそれこそはっきりと「この噺家は嫌い」とまで言いきる希少な評論家でしたね。
私もちょくちょく寄席等でお見掛けしていましたが、寂しく思います。合掌。
コメントありがとうございます。
石井さんから見れば、私がブログで書いていた内容は、「偉そうに、100年早いわ!」と言うことでしょう。
ヨイショができない人だったと思いますし、その結果、噺家との軋轢も少なくなかったと察します。
だから、石井さんが「良い!」と評価する噺家とネタは、傾聴に値するものでした。
あの姿にお会いできないとなると、ますます落語会や寄席から足が遠のきそうです。
馬生さんのお姉さんの美濃部美津子さんの著書によると、馬生がコツコツ勉強家で様々な文献を読み、当時の町の佇まいや地理,暮らしぶりまで調べた人だったことや、噺の知識は志ん生以上の「努力の人」だったと讃えていますね。
マンションに暮らしてベンツで寄席に来る落語家が、どぶ板を這うナメクジ長屋の噺をしても、ちっとも味もへちまもありません。
おなじような暮らし向きの人たちが助けあう人情に、鉄の扉一枚で隣の人は何する人ぞとばかりの現代がさみしく感じられ、豊かさと引き換えに失った物の大きさを考えさせられます。
おっしゃる通り、江戸庶民の生活を描くためには、自分の生活も、できる限り距離を近づける必要もあるでしょうし、知らないことを学ぶことも大事だと思います。
長屋住まいに執着した八代目正蔵にも似た思いが、馬生にはあったと察します。
決してなりたくて噺家になったんじゃない。という思いが、若い頃には強かったはずです。
そして、父志ん生、弟志ん朝に挟まれ、自分はどんな噺家になればいいのか、という煩悶もあったでしょう。
そこから「何でもいいんだよ」という哲学にたどり着いたのかもしれませんね。
馬生の「一品料理」は、たくさんあります。
そして、その料理をしっかり吟味していたのが、石井徹也という人だったのだと思います。
