『春は、出会いと別れの季節』ー「お転婆娘」
2024年 01月 29日
お転婆娘
古希を来年に迎えようとする今、昔のことが、妙に思い出されてならない。
私の初恋のことだ。
北海道の噴火湾に面した温暖な地D市の小学校4年になったばかりの4月、ある女の子が函館から転校してきた。
国鉄勤めのお父さんの転勤によるものだった。
その子の名前は、和美。
とにかく元気がいい。
他の子が、女の子同士で遊んでいても、和美は、私たち男のグループに、平気で乗り込んでくる。
当時の弘田三枝子に似た感じの子だったが、もう少し、スマートだった。
頭も良かった。
都会の函館では、のほほんとしたD市より、競争もあったのかもしれない。
負けん気の強い、積極的な子だった。
父親が国鉄職員だった智子に聞くと、和美のお父さんは、すごく偉い人と言っていた。
しかし、その時にどんな役職だったのかは、いまだに知らないままだ。
転校して来てから半月ほど経ったある日、隣のクラスの悪ガキが、和美をからかいに来た。
和美の持ち物は、みんなと微妙に違う物だったから、からかうネタは結構あった。
「ほう、函館では、こんな筆入れが流行ってんのか」
と、一人が筆入れを持って、仲間に投げた。
「欲しかったら、取りにおいで」
と、受け取った子が、逃げようとした。
私が、やめさせようとしたが、その前に、和美が言った。
「いいわよ、持って行って。でも、それって、泥棒だからね。先生になんか言わずに、警察に言うから」
と、大きな声で、悪がきに言い放った。
私が、すぐ追いかけて言った。
「おい、すぐ返してやれ」
しばらくして、毅然とした和美の姿に、こいつはだめだ、とでも思ったのだろう。
「わかったよ、返してやるよ」
と彼らは筆入れを返し、退散した。
クラスの全員が、和美の姿に圧倒されていた。
それ以降、隣の悪ガキが和美をからかうことはなかった。
夏休みを前にした頃だったと思う。
その当時、ベルマーク運動が始まっていた。
いろんな商品のベルマークを集めると、集まった枚数がお金となり、学校の用具代になったり、へき地の学校の支援になったり、海外の発展途上国への支援物資になったりする仕組みだったはずだ。
「道徳」の時間だったか「社会」だったか忘れたが、ベルマークの話から、いわゆるボランティア、社会奉仕のことが話題になった。
家の手伝いだけではなく、地域社会にとって、感謝の念で何かできないか、というような話の流れだったように思う。
近所や町のどこかで、何か困っていることがあって、自分たちでできることはないか、というような話題になり、父親が国鉄で当時はD市の駅に勤めていた智子が、駅の掃除という提案をした。
駅員も忙しく、たまに、散らかった駅舎を、すぐに掃除できないこともある、というような話だったと思う。
とはいえ、小学4年生に出来ることは、限られている。
和美が言った。
「毎週日曜日の朝、みんなで駅の掃除をしたらいいと思います」
しばらく、教室中が沈黙。
多くの生徒の心の中は、こうだったろう。
(せっかくの休みに、どうして、駅の掃除をしなくちゃいけないんだ)
先生も、強制的にそんなことをさせるわけにはいかないので、そのまま授業が終わった。
休み時間、しばらくすると、国鉄コンビの和美と智子が、遊び仲間の浅川と斉藤と一緒に喋っていた私のところに寄って来た。
和美が私に、
「ねえ、委員長、日曜、駅の掃除しようよ」
と言う。
私は、学級委員長だったのだ。
私は、浅川と斉藤の顔を見て、一瞬の間のあとに言った。
「やる・・・か?」
二人は、ポカーンとしていた。
しかし、振り返ると、智子と和美が、怖い顔して私を凝視している。
「わかった。次の日曜、やってみて、続けるかどうか、終わってから考えよう」
と私は和美と智子に答え、背後にいる浅川と斉藤の方に向き直って、手を合わせた。
二人とも、しょうがねえな、という顔で、頷いた。
日曜の朝9時、和美、智子、浅川、斉藤、そして、もう一人、伊藤が加わり、私を含む6人が駅に集合した。
それぞれ、家から、事前に相談し分担を決めていた箒や塵取り、バケツ、雑巾を持ち寄っていた。
駅舎とその周囲の掃除を1時間ほどかけてやった。
その際、みんなでテレビのドラマの主題歌を歌っていたような気がする。
「じゃじゃ馬億万長者」や「わんぱくフリッパー」だったと思う。
終わってから、ちょうど勤務中の智子のお父さんが、
「綺麗になったよ。ありがとう」
と言って、一人に一個ずつ、キャラメルをくれた。
解散する前に、私がみんなに、
「どうする、来週もやる?」
と聞くと、全員が強く頷いた。
この掃除、その後卒業まで三年も続くとは、当時は思っていなかった。
和美は、年が六つ上のお兄さんがいて、そのお兄さんは、函館の高校に入ったばかりなので、函館に残り、お母さんの親戚の家から、高校に通っていた。
そのお兄さんの影響もあるのか、海外のポップスなども好きだった。
私も、七つ上の姉、五つ上の兄と三つ上の兄がいたので、家には、ビートルズやブラザース・フォアなどのレコードがあり、海外のヒット曲を、知らず知らずのうちに聞く環境にあった。
日曜の初日の掃除が終わってから、浅川と斉藤が私の家に遊びに来るというので、和美も一緒に行く、と言う。
内心、面倒だなぁ、と思いながらも、了解した。
自転車屋の我が家には、居間に、ステレオがあった。
使わない時は、蓋を締めて、テーブルクロスをかけてある、家具のような存在のステレオだった。
浅川と斉藤は、勝手知ったる家であり、店からではなく、裏口から入る。
店の方に向かった、
「おじゃましまーす」
と言えば、母が、
「いらっしゃーい」
と答える。
父も母も、ほとんど店にいる。
和美も後を追って、おじゃましまーす、と家に上がった。
浅川と斉藤は、本棚から勝手に、少年マガジンや少年サンデーを引っ張り出して、菓子盆にある煎餅を食べながら漫画をめくっていた。
和美は、自分の居場所を探すようにキョロキョロしいていたが、ステレオを見つけて、
「あ、ステレオ」
と言った。
そして、レコードの棚を見て、自分の好きなものを発見したようだ。
和美のお兄さんが持っていたレコードは函館にあるので、和美は、寂しい思いをしていたようだ。
また、国鉄官舎に住んでいたのだが、当時の官舎は、決して広いとは言えなかったので、ステレオもなかったはずだ。
私に向かって、和美が言った。
「レコード、かけていい?」
私は、
「いいよ。好きなの聞いて」
と答えた。
彼女が取り出したのは、ロネッツの♪Be My Babyだった。

日本でも、「あたしのベビー」という題で、弘田三枝子などがカバーした歌。
その当時は知らなかったけど、あのフィル・スペクターのプロデュースによる、1963年の大ヒット曲。
きっと、姉、あるいは兄が買ってきたシングルレコードだろう。
レコードをかけようとする和美に、
「やり方分かる?」
と私は聞くと、
「分かるわよ。函館の家にはあったから」
と言う。
和美が、蓋を開けて、レコードをターンテーブルに乗せ、針を落とした。
漫画を読んでいた、浅川、斉藤、そして私は、びっくりした。
三人が家にいる時に聞くのは、ビートルズかベンチャーズ、ビーチボーイズだったからである。
しかし、ソファのスピーカーに一番近い席で楽しそうに聞いている和美の姿は、いつものお転婆から、女の子に戻ったような気がした。
その後、和美は、一人で私の家にレコードを聞きに来るようになった。
