『アイリッシュなら、ブッシュミルズ』ー「ある闘士のこと」
2023年 12月 29日
ある闘士のこと
雨戸を後にした私は、バー菜緒子に向かった。
金曜の9時過ぎ、二つあるテーブル席の一つは埋まっていて、カウンターは一人だけ。
カウンターの客は、その日に法事があったため休みだった、近くのホテルのバー「マウンテン・パス(峠)」のバーテンダー、吉田さんだった。
また、この偶然だ。
二年前の夏、竹田さんと私は、あのバーで菜穂子ママの若かりし日の思い出を聞かされたのだった。
東京の女子大時代、ママ、いや、直子さんは、英会話の勉強と留学費用を貯めるため、英会話教室のバイトをしていた。
そこで知り合ったアメリカ人のスティーブと付き合い初め、外資系ホテルに就職してからもその関係は続いていた。
ある日、山手に住むスティーブと中華街で食事をして、いつものようにホテルニューグランドのバー「シーガーディアン」で、ベルモットの代わりにシェリー酒を使ったオリジナルの「マティーニ・ニューグランド」のナイトキャップを楽しもうとした時、スティーブから、サンフランシスコで日本車のディーラーをしている父親が倒れたので帰国しなければいけないと伝えられた。
その時、「シーガーディアン」でバーテンダー修行をしていた吉田さんが、その場にいたのである。
私は、その話を聞いた後、「マティーニ・ニューグランド」を初めて飲んだ。
竹田さんは、吉田さんが勤めるホテルを定宿にしていて、ナイトキャップには必ずバーでカクテルを飲むのが決まりだった。
そのうち吉田さんにも竹田さんの訃報を伝えなければと思っていた私は、あまりの偶然に驚くとともに、これも竹田さんの引き合せか、と思っていた。
吉田さんに挨拶し、一つ席を空けたスツールに、私は腰かけた。
「何にするの。少し目が赤いわね、雨戸で飲んできたのね」
菜穂子ママはお見通しだった。
「ちょっと、献杯をしてきたよ」
と言うと、
「誰に?」
とママが聞いた。
「実は、竹田さんが、昨日の夜、くも膜下出血で亡くなった」
と言うと、吉田さんも驚いて私の方を向いた。
菜穂子ママは、しばらく声が出なかったが、
「まだ、五十代半ばでしょう」
と呟くように言った。
項垂(うなだ)れていた吉田さんは、
「先週、来られたばかりですよ」
と続ける。
私は、
「俺だって、まだ、信じられないんだ」
と言うしかなかった。
しばらく、天井のBOSEから有線のジャズの誰かのピアノが聞こえていたようだが、誰かはよく覚えていない。
雨戸で、先週キープしたばかりのブッシュミルズで献杯したと言うと、菜穂子ママが涙声で言った。
「うちにも、12年が残っているわよ」
ママが、上を見上げながら、
「いつも、ロックだったわ」
吉田さんも続ける。
「うちでも、マティーニだけでなく、たまにお飲みになっていました。やはり、ロックで」
その時、テーブル席の客三人が、帰った。
ママが彼らを見送って戻ってから、言った。
「そうね、竹田さんのボトルをいただいて献杯するのが、竹田さんが一番喜ぶことかもしれない」
吉田さんの、
「じゃあ、私がロックアイスつくりましょう。ママいいですよね」
の言葉にママが頷いた。
カウンターの中に入り、吉田さんが、ピックを見事な手捌きで使って、丸いロックアイスを三つ作った。
吉田さんは、ロックグラスにその氷を入れ、ママが棚から取り出した「ブッシュミルズ 12年」を注いだ。

吉田さんは、カウンターの席に戻り、ママが吉田さんと私の前に、そのグラスを置いた。
ママが、グラスを持った。私も吉田さんも、続いた。
ママの
「竹田さんの思い出に、献杯」
の声に、吉田さんも私も声を合わせ、グラスに口をつけた。
三人は、その何とも言えない深さのあるアイリッシュを味わいながら、竹田さんとのあれこれを思い出していた。
それぞれに違った思い出があっただろう。
ママが言った。
「三年前だったかな、竹田さんが珍しく若い頃の話をしてくれたの」
その話はこうだった。
竹田さんは、昭和12年、札幌で生まれた。
父親は、地元銀行に勤めていて、役員にまでなった人だった。
高校を出て、北大に入ったのは昭和31(1956)年、安保闘争が始まっていた。
後に全学連委員長となる唐牛健太郎(かろうじ けんたろう)と教養学部で同期だった。
彼からの影響もあり、ほとんど授業には出ず、闘争にのめり込んでいた。
唐牛が大学を辞めて東京で働いていた時も、竹田さんの情熱は変わらなかった。
しかし、セクト間の内紛などに疲れ、父や母のことも考えて、大学四年の時には、竹田さんの言葉で言うと、
「転向したんだよ」
とのことだった。
なんとか卒業し、親のコネもあって、開局二年目のテレビ局に入社した。
本当は、新聞記者になりたかった。
当時、北海道新聞(道新)の論説委員に、朝日を辞めた須田禎一さんがいた。
後に『氷焔』や『ペンの自由を支えるために』という著作で有名なジャーナリストだ。
コラム「卓上四季」の執筆者としても活躍された。
須田さんへの憧れもあって道新を受けたが、試験で落ちた。
テレビ局入社後、最初、報道部門に配属された。
竹田さんは、学生時代に「転向」した自分を恥じていた。
道新の須田さんの社説などを読み、自分はジャーナリストとして生きよう、と思いを強くしていた。
しかし、新聞以上にテレビでは、竹田さんが伝えたいことを放送するには、高い壁があった。
竹田さんは、上司に、もっと安保闘争のことや政治家の汚職などについて市民の立場で報道すべきだと訴えたが、その思いは、ことごとく跳ね返されていた。
上司も竹田さんが厄介な奴と思っただろう、入社年して四年後、編成部門に異動になった。
しかし、仕事は、キー局の番組をどのように編成するかが主な仕事であり、何ら、ジャーナリズムの香がするものではなかった。
竹田さんは、また「転向」という言葉を使ったらしい。
編成に二年いた後、三十歳となる時、自ら営業部門への異動を願い、許された。
東京を皮切りに大阪、そして名古屋と転勤し、名古屋には、もう15年の長期勤務になっていた。
編成にいた時、高校の同級生と結婚した。
東京と大阪の各5年は単身赴任だったが、子供二人が社会に出てた五年前、奥さんも名古屋にやって来た。
竹田さんが、どのように折り合いをつけて「転向」したのかは、分からない。
ママの話の後、吉田さんが言った。
「竹田さんは、俺は転向組なんだよ、ってよく言ってました。深くはお聞きしませんでしたが、大学時代と会社勤めで、二度、転向したんだ、って」
菜穂子ママが、思い出したように、
「そう言えば、学生時代も、会社に入ってからしばらくの間も、とにかく喧嘩ばかりしてたって、そう言ってたわ」
と言うと、吉田さんも、
「そうそう、そうおっしゃっていました」
と続けた。
吉田さんが、
「もしかして竹田さんが好きだったあのレコード、こちらにもあるんじゃないですか」
と言うと、すぐに菜緒子ママは察したようだ。
「Miles Davis And The Modern Jazz Giantsかな」と、流ちょうな英語でママが答えた。
「それですよ」と吉田さん。
「羅針盤でわざわざ買って持ってきてくれたんです」
と吉田さんが言うと、ママが
「うちのも、そうなのよ」
と答えた。
ママは、有線を切って、棚から一枚のアルバムを取り出し、ターンテーブルに置いた

1954年12月24日のクリスマスイヴ収録の4曲と、あのマラソンセッションから1曲で構成された、Prestige 7150番。
ジャズファンの間では、1954年の4曲は「喧嘩セッション」と呼ばれている。
マイルスは後年否定しているが、聞けばその形容がぴったりする。
中でも1曲目♪The Man I Love(take2)は、実に印象的だ。
「ブッシュミルズ 12年」を口に含むと、天井のBOSEから、流れてきた。
トラペットはもちろんマイルス、ミルト・ジャクソンのヴィヴラフォン、セロニアス・モンクのピアノをバックアップするのが、ベースのパーシー・ヒースとドラムスのケニー・クラークだ。
モンクのピアノソロが、なぜか途中で止まり、マイルスにせっつかれて再開する、実にスリル満点な曲である。
ママが言う。
「竹田さん、モンクが、マイルスをおちょくってるんだよ、って楽しそうだったわ」
確かに、そんな風に聞こえなくはない。
マイルスに言わせると、彼のトランペットにモンクのピアノがマッチしないから、自分のソロの時はモンクに休んで欲しい、と頼んだだけ、とのことだが、それも怪しい。
竹田さんが、このアルバムを好んだのは、「喧嘩セッション」という通称からか、単に、まさにジャズ・ジャイアンツの作品だったからなのか、はたまた、収録日の1954年12月24日に何か意味はあるのか、まったく分からない。
しかし、当時37歳のモンクと28歳のマイルスのからみが好きだったのは間違いないだろう。
いずれにしても、このアルバムからは、ジャズの巨人たちの真剣勝負の緊張感が、ひしひしと伝わってくる。
そう、闘い、であり、それぞれは闘士なのである。
そして、「転向」と自嘲的に形容する前に、竹田さんは間違いなく一人の「闘士」だったのだろうと思う。
ジャック・ヒギンズの『鷲は飛び降りた』のリーアム・デヴリンのように、孤独な闘士だったと思う。
私は、竹田さんのそんな姿を回顧する話を直接聞くことができなかったのが、残念だった。
そして、もっと酒やミステリーやジャズのことを、人生の先輩と語り合いたかった。
人生はいつ終焉を迎えるか分からない、だから、その時の出会いを大切にしなければならない、ということを痛感していた私が、あの時、バー菜穂子のカウンターにいた。
