『アイリッシュなら、ブッシュミルズ』ー「鷲は舞い上がった」
2023年 12月 29日
鷲は舞い上がった
三十年余り前の10月最後の金曜の夕方、私はいつもより早く、夕方6時5分前に職場を出ようとした。
支局長に、
「下に行きます」
と言うと、電話中の支局長が受話器を耳から外し、
「ちょっと待って」
と言って、事務の佐代ちゃんに目配せした。
佐代ちゃんは、私に祝儀袋を差し出した。
そうか、職場からも出すんだ、と思い受け取った。
その夜は、同じビルの一階にある喫茶「サフラン」の開店15周年記念のパーティーだったが、それは、翌月結婚するため辞めたばかりの多美ちゃんの送別会を兼ねたものだった。
喫茶「サフラン」は、来客に出すコーヒーの出前も頻繁に頼む店だった。
また、私は、出勤前、「サフラン」でコーヒーを飲むのがルーティン。
受話器を置いた支局長の、
「マスターとママさんによろしく伝えてください」
と言う言葉に、
「承知しました。支局代表として、行ってまいります」
と、私は笑って答えた。
職場のドアを開け階段で下に降りようとした時、また電話が鳴り、それを受けた佐代ちゃんが
「支局長、お電話です」
と言う声が聞こえた。
10月の番組改編も落ち着いた時で、急ぎの仕事ではないだろうと思いながら、一階に降りて行った。
支局長は予定があり、部長は会議で東京に行っていて、他の職場の仲間もあまり多くてもと遠慮し、結果として私一人が、会社の総代のような形での出席だった。
店に入ると、テーブルと椅子が片付けられ、立食形式になった店内は、賑わっていた。
椅子は、壁際に並べてあって、中央のテーブルの料理を思い思いに選んで食べるレイアウトになっていた。
貸し切りで、二十人ほどの常連客がお祝いに駆けつけていただろうか。
つい二週間ほど前にあったことは、多美ちゃんと私だけの秘密だった。
もう10年以上通っている「サフラン」のマスターとママさんも、まさか、ジャズ喫茶「雨戸」で酔った多美ちゃんを私がアパートまで送って行き、成り行きで泊まったことなど、知る由もない。
とはいえ、添い寝のままだったんだが。
常連さんの中には、四年間看板娘として働いた多美ちゃんのファンも多く、そんなことを知ったら、どうなることやら。
ビールとワイン、サンドイッチやピザなどの、店ならではのパーティーもお開き近くになり、なぜか、私が多美ちゃんに花束を渡す役になってしまい、お互い目を見合わせるのが、照れ臭かった。
私は、個人的に、あの夜、多美ちゃんの部屋に見つけることができなかった、ジャック・ヒギンズの『死にゆく者への祈り』と『鷲は舞い降りた』の二冊、そして、アート・ペッパーの「Modern Art」のCDを贈った。
あのエクボが魅力な笑いも見納めだった。
18時に始まり、そろそろお開きという頃、東京に出張していたはずの部長から店に電話があった。
電話は、マスターが奥の事務所の子機に回してくれた。
何があったかと思って受話器を取って、その訃報に接した。
北海道のテレビ局の名古屋支局長で、私の酒とミステリーの師匠と言える竹田さんが、昨夜亡くなったと言う。
くも膜下出血。
一週間前、会ったばかりなのに。
まず、名古屋時代に家族ぐるみでお付き合いのあった支局長宛てに18時頃、奥さんから電話があり、その後部長がいた東京本部に支局長から連絡があったという。
あの電話が、そうだったのか・・・・・・。
支局長は、その夜、地元テレビ局の開局20周年記念パーティーのためすぐに職場を出なければいけないし、始まったばかりのサフランのパーティーにいる私への気遣いもあったのだろう、後で部長から店に電話するよう指示したようだ。
名古屋で翌日が通夜で、支局長と部長が出るから、私までは参列するには及ばないとのこと。
部長も支局長の部下として名古屋にいたことがあり、奥さんは名古屋の出身だった。
これから名古屋に行き奥さんの実家に泊まることにしたようだ。
サフランのパーティーが終わる頃と思い東京駅から私に伝えようとしてくれた電話だった。
私は、こういった上司のいる職場環境に、あらためて感謝していた。
受話器を置いた。
あまりに突然のことで、目の前が霞んできた。
電話は、子機に回してもらっていたので、誰も私の動揺には気づいていない。
ちょうど、常連の小林電器店の社長さんによる三本締めが始まろうとしていたが、私の戻るのを待ってくれていた。
そのパーティーは会費3,000円だったが、そのうちの2,000円は、多美ちゃんへの贈り物代であり、多美ちゃんの希望を元に、冷蔵庫を贈ることになっていた。
今、T町の多美ちゃんの夫となる保君の実家の豆腐屋さんでは、店の近くに二人の新居を建築中だった。
雪が降る前に完成予定で、その冷蔵庫は、同じT町出身の電器店の社長が工事費無料で設置することになっていた。
その目録は、すでに多美ちゃんに渡されていた。
なんとか、表情を悟られまいとして無理に笑顔をつくって、その輪に戻り、三本締めでお開きとなった。
三々五々、客が帰って行く。
多美ちゃんが別れ際に、
「本当にお世話になりました」
と、私に頭を下げた。
誰も、その言葉に隠された意味は、分からなかったはずだ。
マスターとママさんに挨拶をして、私は店を後にした。
とても、そのまま帰る気にはなれなかった。
自然に、雨戸に足が向いていた。
竹田さんは、地方テレビ局の名古屋ルート開拓のために、恩義のある方だった。
大手の食品関係の顧客は、全国でテレビのスポットを出稿している。
たとえば、北海道の、東京キー局の4つの系列にある4つのテレビ局のスポットは、必ずしも北海道本社の営業を窓口にするわけではない。
もし、勤めていた広告代理店の東京本部の媒体部に強い購買力があれば、地方テレビ局の東京の営業窓口と交渉するのだが、その当時、東京経由で出て来るスポット案は、競合する他の広告代理店に勝てるような内容ではなかった。
支局長が、名古屋時代に築いた人脈の中に竹田さんがいた。
まず、竹田さん自身の局のスポットも東京を通すよりはるかに良い内容だっただけでなく、青森、岩手、宮城、秋田、福島など、他の地域の同じ系列の局の営業さんとの仲介役となってくれたおけがで、競争力のあるスポット案を仕入れることができるようになった。
もちろん、扱い額も多かったから、各名古屋支局にとっても、それは十分メリットのあることだった。
私が、同じ顧客担当チームになってから10年以上のお付き合いだったし、ジャズもお好きだったし、酒やミステリーでは、間違いなく私の師匠と言える人だった。
雨戸のドアが、いつになく重く感じた。
カウンターには、常連の俊二さんと明さんがいた。
テーブル席は空いていた。
VITAVOX(ヴァイタボックス)から流れていたのは「ジャズ・アット・マッセイホール」だった。
1953年5月15日、トロント、マッセイ・ホールでのライヴ録音は、アルトのバード(チャーリー・パーカー)とトランペットのディジー・ガレスピーの最後の競演。ピアノはバド・パウエル、ベース、チャールズ・ミンガス、マックス・ローチのドラムス。
俊二さんと明さんの二人は、年末に予定されている大学の後輩と彼らOBによるビッグバンドのクリスマスコンサートに、俊二さんはテナーサックス、明さんはトランペットで出演する。
二人のどちらかのリクエストであろう。
いつものように、カウンターの一番奥から二つ目のスツールに腰を落ち着けるが、心は、まったく落ち着いていない。
令子さんが、棚から私のエヴァン・ウィリアムスを出そうとしていたが、
と止めた。
竹田さんは、雨戸に五、六回は来ているから、恵子さん、令子さん姉妹も、もちろん知っている。
俊二さんと明さんも会ったことがある。
それどころか、前の週に竹田さんと来た時にも、二人がいたことを思い出した。
8時少し前。
今夜は早番が令子さん、遅番が恵子さんのようで、まだ、恵子さんは来ていなかった。
令子さんと俊二さんが、私が何か言うものと思い、見つめている。
「実は、竹田さんが、昨夜、くも膜下出血で亡くなった」
と告げた。
俊二さんと明さんも、驚いた表情で私を見た。
令子さんが、
「えっ、先週お会いしたばかりじゃない」
と言い、しばらくの沈黙の後、
「わからないわね、人の命なんて」
と呟いた。
その通り。
前の週、居酒屋源太で一緒に食事をした後、雨戸に立ち寄り、竹田さんは、新しいボトルをキープしたばかりだった。
「飲んでいいからね」
と、いつものように優しい笑顔で言っていた。
しかし、私には、エヴァン・ウィリアムスがあるし、まだ、アイラのシングルモルトも残っていた。
私は言った。
「竹田さんのウイスキーで弔いたいんだけど、どう思う?」
令子さんは、一瞬考えた後、
「私も、それがいいと思う。竹田さんも喜んでくれると思うわ」
令子さんは、棚から竹田さんのボトル「ブッシュミルズ 」を取り出した。

ジャック・ヒギンズの名作『鷲は舞い降りた』(The Eagle Has Landed)の中で、アイルランド共和軍(IRA)の元革命闘士リーアム・デヴリンが飲んでいたアイリッシュ・ウイスキーだ。
ヒギンズ、1975年の作品。
『死にゆく者への祈り』とともに彼の傑作と言われる作品では、1943年、敗戦濃厚となったドイツ軍が、ヒトラーの命令によりチャーチルを誘拐する作戦があったことが描かれている。その作戦のために、元IRAの工作員デヴリンを利用しようとするのだ。デヴリンは、落下傘部隊によって作戦を実行する場所にいち早くアイルランドから到着し準備をするのだが、不覚にも土地の娘モリィ・プライアと恋仲になってしまう。
こういった、あらすじを、いつも竹田さんは、ブッシュミルズを飲みながら、楽しそうに語っていた。
翌年には、ジョン・スタージェスで映画化され、デヴリンを若き日のドナルド・サザーランドが演じた。
「映画もいいんですよ。デヴリンとモリィとの淡い恋の物語でもあるんです。そして、音楽は、あのラロ・シフリンですよ」
主役のドイツ軍中佐シュタイナーを演じるマイケル・ケイン、モリィ役ジェニー・アガターの演技など、竹田さんの話は止まらない。
その話を何度か耳にしていた令子さんは、夫でありレコード店羅針盤社長でる茂男さんに頼んで、サントラ盤のCDを用意して、前の週に、竹田さんと私に聞かせてくれた。
そのサントラを聴きながら、残っていたブッシュミルズを飲み干した竹田さんの嬉しそうな顔が、忘れられない。
その時、恵子さんがやって来た。
令子さんは、竹田さんのことを伝えた。
令子さんが、ブッシュミルズのストレートのグラスを、俊二さん、明さん、そして私の目のまえに置いた。
そして、ターンテーブルのレコードの針を上げ、『鷲は舞い降りた』のサントラCDをかけてくれた。

そうか、これまでディジー・ガレスピーを聴いていたんだった、と私は思い出した。
ラロ・シフリンは、ディジーのビッグバンドのピアニスト兼アレンジャーとして頭角を現したのだった。
多美ちゃんにジャック・ヒギンズの本を贈ったことを含めて、何とも言えない偶然に、少し身震いした。
私が、
「献杯」
と言うと、我々五人は、ブッシュミルズのグラスに口をつけた。
この店には珍しい、映画のサントラが流れてきた。
本当に、人の人生は分からない。
上司の支局長は、竹田さんのことを、あのテレビ局の社長になっても不思議ではない人だった、と言っていた。
詳しい話は聞いたことがないが、竹田さんは、決して体制側の人ではなかったと思う。
権力者に媚びいる人でも決してないだろう。
幼少期をアイルランドのベルファストで暮らし、さまざまな職業に就いた後、IRAの孤独の闘士を主人公に描いた作品で世に出たヒギンズとその作品に、竹田さんは、感じるものがあったに違いない。
ヒギンズは、1991年に『鷲は飛び立った』という続編を書いた。
日本語版は、1997年発行。
亡くなったと思われてたシュタイナーは生きてロンドン塔に幽閉されていた、彼をデヴリンが救出に行く、というその本は、まだ、その時知る由もない。
私は、その夜、竹田さんという鷲が、そう、鷲が天国へ舞い上がった、と思いながら、思ったより甘く感じたブッシュミルズを飲みながら、泣いた。
そして、一時間ほど後になって、竹田さんの訃報を伝えに行ったバー菜緒子で、竹田さんが語った若かりし日の姿を、ママから聞くことになるのだった。
小説もさることながら、読んでいた頃のことが懐かしいです。
