『時には、ストレートで』ー「葬儀の後で」
2023年 12月 21日

葬儀の後で
この頃、三十年余り前のことが、思い出されてならない。
新潟県N市の、ある広告代理店の支局に勤めていた頃のことだ。
私の客に、N市内にある羅針盤という名のレコード屋、いや、レコード屋チェーンがあった。
市内に本店、県内に他に2店を構えるレコード屋さんだった。
レコード、カセット、そして、その頃流行り出したCDなどを幅広く揃えるとともに、楽譜やレコード針、楽器も扱う店だった。
その手の専門店としては県内で二番目の規模で、広告の扱いも、それなりにあった。
地元テレビ局のスポットに加え、提供番組も一つあった。
東京キー局制作の音楽番組。
とはいえ全国ネットではなく、各地域で別な時間帯で放送し、地元で提供枠を販売していた。
バイリンガルのMCの名調子で、アメリカのヒットチャートを紹介するもので、私も個人的に好きな番組だった。
60秒の広告は、最初と最後に30秒ずつで、最新のプロモーション・ビデオ(PV)を流し、そこにテロップをかぶせる、というシンプルなものだった。
たとえば、ヴァン・ヘイレンの♪ジャンプのPVを流し、
“全米ナンバーワンヒットのジャンプを含むヴァン・ヘイレンの最新アルバム「1984」好評発売中!”
というテロップが流れる、というようなもの。
一応、文章(コピー?)は私が考えて、社長の了解を得る。
その羅針盤の小林社長が、三日前亡くなり、その日が告別式だった。
土曜で、私は休みだった。
ジャズ喫茶雨戸の恵子さんと令子さんも、昼の営業を休みにして、参列していた。
二代目を継ぐ予定で父親を手伝っていた茂男さんは、令子さんの中学、高校の同級生だった。
雨戸の常連の一人でもある。
二人は私より二つ上だが、令子さんの前では年齢の話は、タブーだ。
告別式の後、恵子さん、令子さんと私は、雨戸の近くの中華料理屋で昼食をとった。
恵子さんは、いったん帰宅し、旦那さんの夕食の準備をしてからの出勤。
店について、ドアの前で、令子さんと私はお互いに清めの塩を振ってから中に入った。
さすがに11月も半ばだ、店の中は、ひんやりしてした。
令子さんは、すぐに暖房を入れたが、温まるには、しばらく時間が必要だろう。
「たまに、ココアでも飲む?」
と、令子さん。
まだ、午後の3時。
開店まで、2時間ある。
「そうだね、まず、あったまるか」
と、私。
令子さんは、すでに決めていたかのように、"Lee Morgan 3"をターンテーブルに置いた。
ブルーノート1557番。
天才トランぺッターが19歳の時、1957年3月24日に、ヴァン・ゲルダー・スタジオでの収録。
ベニー・ゴルソンのテナー、ジジ・グライスがアルトとフルート、ウイントン・ケリーのピアノ、ポール・チェンバースのベースだが、ドラムスは、フィリジョーではなく、チャーリー・パーシップだ。
三曲目に、ゴルソンが、クリフォード・ブラウンを偲んで作った♪I Remember Cliffordが入っている。
多くのジャズ・ミュージシャンがカヴァーしている名曲だ。
葬送の日には、相応しい選曲に違いない。
加えて、社長もクリフオード・ブラウンの大ファンだったことは、令子さんも知っている。
令子さんが開店の準備をしながら作ってくれたココアが出来上がると、ちょうど、三曲目になった。
この曲は、なんとも、言えない気分にさせる。
開店40分ほど前、栄子が出勤。
二年前の“B面の女”は。すっかり、雨戸の女、になっていた。
羅針盤の社長のことを思い出していた。
市内の貸本屋の子に生まれた。
父親は、その店の他に周囲のアパートも親から継いでいたので、家賃が主な収入とも言えた。
社長が中学から高校の頃、週刊の漫画雑誌や、月刊誌が出版され始めて、新刊を買えない子どもたちは、発売日に、貸本屋の前に並んでいた。
茶色い油紙で雑誌をカバーし、一晩十円で貸すのだった。
月刊の漫画雑誌の付録も店で売っていたが、ソノシートが売れ残るのを社長は待っていた。
ソノシートで、社長は、いろんな音楽を楽しんでいた。
工業高校を出て市内の電器店に勤めた。
時代は、3Cの時代で、カラーテレビやクーラーがよく売れて、社長は取り付けなどで、忙しかったと言っていた。
社長が30歳の時、父親が病に倒れた。
すでに貸本屋ブームは去っていた。
老朽化したアパートを壊して、店を拡張し、レコード屋を始めたのだ。
ビートルズ以降の洋楽ブームで店は忙しくなり、他の町にも出店し、順調に売り上げを伸ばしていた。
レコードからカセット、そしてCDに変遷していったか、売上が落ちることもなく、学校への楽器の販売などもあり、商売に不安はなかった。
8年前、私が転勤でN市にやって来た時、ちょうど東京に転勤になる先輩から引き継いだお客さんの一つだった。
倉庫を兼ねる本社に打合せにうかがうと、仕事の話はそこそこで、社長自らドリップしてくれた美味いコーヒーを飲みながら、お互い好きなジャズの話で盛り上がる。
親の話や、自分のことなど、なんでも話してくれた。
「そろそろ茂男に後を継ぎたいんだけど、まだ独り身だからねぇ」
と言い、
「雨戸の令子さんのような嫁を連れて来てほしいんだけど、まったく色気のない男で」
というのが口癖のようになっていた。
しかし、茂男さんや令子さんに、私からそのことを伝えたことはない。
遠洋航路の船乗りだった恵子さんと令子さんの父親は、家を留守にしがちで、令子さんは、よく、羅針盤に遊びに行っては、レコードを聴いていた。
たまに海外から帰る父親のお土産も、レコードだった。
姉妹は、父親が持ち帰るジャズに、魅了された。
社長は、姉妹がジャズ喫茶を開店する時の良い相談相手だった。
ちなみに、恵子さんは結婚したが、令子さんはいまだに独身。
社長は、愛煙家だった父親が肺癌で亡くなったこともあり、煙草は吸わなかった。
しかし、父親と同じ病で60代で亡くなってしまった。
そろそろ開店の時間になった。
令子さんは、"Lee Morgan 3"の後はしばらく何もかけていなかったが、思い出したかのように、羅針盤の社長が好きだったArt Pepperをターンテーブルに置いた。

"Art Pepper Meets the Rhythm Section"は、1957年1月の収録。
アート・ペッパーが、マイルス・デイビスのリズムセクションと一夜限りのセッションを行った貴重なアルバムだ。
VITAVOX(ヴァイタボックス)から、コール・ポーターの♪You'd Be So Nice to Come Home Toが流れる。
この曲は、"Helen Merrill with Clifford Brown"が、一気に有名にしたとは思うが、私は、この曲で一つ、と言われたら、こちらを挙げる。
開店と同時に、茂男さんが、告別式に参列した後も火葬場まで付き合ってくれた同級生たち3人と店にやって来た。
茂男さんと小学校から高校まで一緒という友人たちは、羅針盤の社長にみな可愛がってもらっていたようだ。
カウンターに茂男さんを含む四人が腰かけた。
全員、この店の常連である。
とりあえず、ということで、私も含む五人は、ビールで献杯した。
そして、その後、驚くべき事態となった。
茂男さんが、スツールから腰を下ろし、直立不動になって、
「令子、俺と結婚してくれ」
と深々と頭を下げたのだった。
私は、思わず二口目のビールを噴き出しそうになったが、同級生三人は、このサプライズを予期していたようだった。
葬儀の後に、こんなことが起こるとは、まったく思いもしなかった。
私は、ビールを飲み干し、栄子に、ついこう言った。
「バーボン、ストレートで」
