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青山透子著『日航123便墜落 遺物は真相を語る』より(11)


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青山透子著『日航123便墜落 遺物は真相を語る』

 2018年に単行本で発行され、今年8月に河出文庫で再刊された『日航123便墜落 遺物は真相を語る』から十一回目。

 目次。
□文庫版 はじめに
□第一章 この墜落は何を物語るのかー国産ミサイル開発の最中の墜落
□第二章 焼死体が訴えていることは何かー乗客乗員全員分の未公開資料から
□第三章 遺物調査からわかったことは何かー機体の声が聴こえる
□第四章 証拠物と証言が訴えていることは何かー未来の在り様を考える
□あとがき
□文庫版 おわりに
□主な参考文献

 前回は、第二章から、青山さんがかつての先輩や同僚の遺体に向き合っていたことをご紹介した。

 なぜか、乗務員の制服は、ほとんど燃えることなく残っていた。

 しかし、多くの乗客の遺体は、まるで二度焼きされたように炭化していた。
 
 また、炭化した遺体のそばにあったミッキーマウスのぬいぐるみが、まったく燃えていなかったというのは、謎だった。

 これらの状況から、何者かが火炎放射器などで二度焼きする際、炎を向ける対象について、その人間の感情が、なんらかの影響を与えたのではないか、という推理が成り立つ。


 そして、他にも大きな謎があった。
 乗務員の中で、ある一人の制服だけが行方不明だったのだ。

  機長の制服行方不明事件

 最大の疑問は、なぜ機長の服がなかったのだろうかということである。
 すぐ隣の席に座っていた副操縦士や後ろに座っていた航空機関士の制服は残っている。機長だけが服を取られたのか、遺体も顎と歯のほんの一握りしかなかった。そしてスチュワーデスの制服がほとんど燃えていなかったという事実は、一体何を物語るのだろうか。
 まず、機長の高浜雅己の遺体は、報道各紙が取り上げた通り、ずいぶんと後になって発見された。もちろん奥様が後でよいとおっしゃったためでもあるが、実際には制服が全く見つからなかったこともその理由であった。
 早速「ご遺体一覧表」を見てみたところ、警察医の作成した確認表では検視番号が125番であった。つまり結構早い段階で山から下ろされていたことになる。遺体は顎の一部(頭下部)、歯牙のうちの下右と下前のほんの一握りだけであり、炭化はしていない。つまり焼けていないのである。それにもかかわらず、服がない。
 次に、副操縦士の佐々木祐は、検視番号80とかなり早い。頭下部、胸腰部、左手(上腕、前腕、手掌)はあるが、右手はない。下半身は揃っていたが全体的に炭化していた。服はそのままで、身元確認にも服装ありのい〇がしてある。
 福田博航空機関士については検視番号が461番と遅い部類に入る。頭上部が一部欠損して、両手も一部欠損、左足一部欠損状態で炭化していた。しかしながら制服はそのままで着衣にて身元確認を行っている。
 こうやって詳細に見ていくと、確かに福子医師が語った通り、機長の服装以外、運航乗務員も客室乗務員もすべて着衣(制服)が残っている。
 コックピットの三名の状態は、機長は炭化していないが制服がなく、二人は炭化状態であったが制服はあった、ということになる。高い角度から落ちた場合は風圧で全裸となる遺体も多いが、今回は乗客でも裸ということはなく、肉体が炭化していたとしても衣服は着用状態であった。なぜ機長だけが服がないのか、という思いは当時の検視(検死)を担当した警察も医師も同じであった。

 たしかに、機長の制服だけが行方不明、というのは、あまりにも不自然だ。

 また、同じコックピットにいた三人のうち、なぜ、副操縦士と航空機関士は、服装と所持品で身元確認できたのに、機長だけが、肉体的原形をとどめない状況であったのか、合理的な説明がつかない。

 青山さんの推理は、どうだったのか。

 警察医や医師たちの証言では、自衛隊員による搬入後、遺体が運び込まれた身元確認場所となった体育館内では複数の目があって物や遺体をどうこうすることもできなければ、隠れる場所すらない、とのことである。となれば、機長の制服は山に放置、または自衛隊が搬入する過程において何処かへやってしまった、と考えるしかない。まず警察側も探していた機長の服を山に放置することは不可能であろう。それは自衛隊のみならず消防団や警察も加わって様々なものを回収したからである。次に激突して焼損したとしても、遺体が炭化した機長以外の操縦士の制服はそのままであったことから、跡形もなく焼損することは考えにくくなる。とすれと機長の制服だけが消えてしまったことになる。
 あの時、機内では墜落を悟った乗客たちはそれぞれ遺書を書いていた。胸ポケットに忍ばせたり、社用の封筒に書き残したり、時刻表に書いたり、様々であった。
 もし、機長だけがなんらかの事実を知り、それを書き記していたと考えてみても、必死の操縦で機体をたてなおしていた最中に遺書のようなものをを書き記すことは不可能に近い。
 あくまでも想像の範囲だが、一つの可能性として考えられることは、機長の制服の中に「何かがある」ことを恐れた人が、墜落後に回収したのではないだろうかということだ。つまり、副操縦士や航空機関士とは全く関係がないが、機長だけが「知った」何か、である。そして万が一、それが表に出ては困ると考えた人がいるのではないだろうか、としか制服の行方がわからない理由が思い当たらないのである。

 機長の制服に何かがあったため回収された、という青山さんの推理は、状況から十分妥当性がある。

 制服も「なかったこと」にしたかった人物、組織があったのに違いない。


 Wikipedia「日本航空123便墜落事故」から、高濱雅己機長のプロフィールを引用する。
Wikipedia「日本航空123便墜落事故」

□機長(CAP):高濱雅己(たかはま まさみ、49歳 宮崎県出身)・運航部門指導教官
□JAL入社年月日:1966年(昭和41年)12月1日
□海上自衛隊(担当操縦教官は3等海佐・杉野計雄(元・大日本帝国海軍飛行兵曹長))から富士航空・日本国内航空を経JALに入社
□総飛行時間:12,423時間41分(うちB747、4,842時間22分)
□B747以外の保有運行資格:YS-11、B727、DC-8
□当日の動き:最初のフライトで、副操縦士席で副操縦士の指導や無線交信などを担当

 もし、ご存命だったなら、今年87歳。


 次回は、第三章 遺物調査からわかったことは何かー機体の声が聴こえる、に進む予定。

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by kogotokoubei | 2023-11-10 20:54 | 日航123便墜落事故 | Trackback | Comments(0)

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