映画「福田村事件」は、必見(6)
2023年 10月 09日
映画「福田村事件」の六回目。
公式サイトはこちら。
映画「福田村事件」公式サイト
同サイトから引用。
大正デモクラシーの喧騒の裏で、マスコミは、政府の失政を隠すようにこぞって「…いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩の仕業か」と世論を煽り、市民の不安と恐怖は徐々に高まっていた。そんな中、朝鮮で日本軍による虐殺事件を目撃した澤田智一(井浦新)は、妻の静子(田中麗奈)を連れ、智一が教師をしていた日本統治下の京城を離れ、故郷の福田村に帰ってきた。同じ頃、沼部新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商団は、関東地方へ向かうため四国の讃岐を出発する。長閑な日々を打ち破るかのように、9月1日、空前絶後の揺れが関東地方を襲った。木々は倒れ、家は倒壊し、そして大火災が発生して無辜なる多くの人々が命を失った。そんな中でいつしか流言飛語が飛び交い、瞬く間にそれは関東近縁の町や村に伝わっていった。2日には東京府下に戒厳令が施行され、3日には神奈川に、4日には福田村がある千葉にも拡大され、多くの人々は大混乱に陥った。福田村にも避難民から「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」との情報がもたらされ、疑心暗鬼に陥り、人々は恐怖に浮足立つ。地元の新聞社は、情報の真偽を確かめるために躍起となるが、その実体は杳としてつかめないでいた。震災後の混乱に乗じて、亀戸署では、社会主義者への弾圧が、秘かに行われていた。そして9月6日、偶然と不安、恐怖が折り重なり、後に歴史に葬られることとなる大事件が起きる―。
こちらが予告編。
主なスタッフとキャスト。
◇主なスタッフ
●監督:森達也
●脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦
●企画:荒井晴彦
●企画協力:辻野弥生、中川五郎、若林正浩
●統括プロデューサー:小林三四郎
●プロデューサー:井上淳一、片嶋一貴
●アソシエイトプロデューサー:内山太郎、比嘉世津子
●音楽:鈴木慶一
●撮影:桑原正
◇主なキャスト
●澤田智一:井浦新
●澤田静子:田中麗奈
●沼部新助:永山瑛太
●島村咲江:コムアイ
●井草貞次:柄本明
●井草マス:向里祐香
●井草茂次:松浦祐也
●長谷川秀吉:水道橋博士
●田中倉蔵:東出昌大
●田向龍一:豊原功補
●砂田伸次朗:ピエール瀧
●恩田楓:木竜麻生
●藤岡敬一:杉田雷麟
●谷前信義:生駒星汰
●平澤計七:カトウシンスケ
前回までの、あらすじの題を確認。
(1)列車の中
(2)讃岐から行商人一行が出発
(3)野田駅
(4)薬の行商の旅・名前は「望」
(5)福田村・倉蔵と咲江
(6)薬の行商の旅・らい病患者への商売
(7)福田村・井草家
(8)千葉日日
(9)福田村・澤田夫妻
(10)福田村・静子と倉蔵
(11)薬の行商の旅・朝鮮飴と扇子
(12)大震災・明治天皇の写真
(14)震災直後・巡査の言葉や噂
(15)震災直後・福田村自警団の結成
政府や新聞の、「煽動」とも言えるプロパガンダにより、反朝鮮人、反社会主義者、反よそ者、という空気が関東各地で充満していた。
なお、今回は、上映終了後、帰りのバスの時刻が迫っていて、映画館からバス亭までも少し距離があったので、プログラム(パンフレット?)を買う時間がなかった。
amazonは在庫切れ。ネットでは結構高い値がついている。
シナリオも含む、一冊の本のような体裁らしい。
買えなかったのが、残念。
そんなわけで、記憶が曖昧な点もあり、科白や時系列が正確ではないかもしれないが、ご容赦のほどを。
今回は、福田村に讃岐の行商人が着いたところから書くつもりだったが、いろいろと思い出した内容があり、映画の時間軸では前後する部分もあるが、紹介したい。
歴史に名が残る、日本と朝鮮の事件を含む内容になった。
もちろん、ネタバレ、になるので、ご注意のほどを。
(16)平澤計七殺害(亀戸事件)
震災前に、新聞記者から取材を受ける平澤計七のカットがあったのだが、割愛していた。
先に、Wikipedis「平澤計七」から引用。
Wikipedia「平澤計七」
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。
若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。この間、文学に興味を持つようになり、『万朝報』や『文章世界』などに投書するようになった。
職工養成所を卒業後、3年間、大宮工場で働いたのち、鉄道院工作局新橋工場に移るが、間もなく兵役の義務が生じ、近衛歩兵第二聯隊に入営した。1912年春、一等兵で除隊、新設の浜松工場に移された。
新橋工場時代、小山内薫を訪ね、劇作の指導を受け、小山内の紹介で雑誌『歌舞伎』にゴーリキーの影響が見られる戯曲「夜行軍」を発表した。
浜松時代、鈴木文治らの友愛会の運動を知り、そこに彼は労働者として生きる希望を見出し、上京して南葛飾郡大島(現・江東区大島)にあった東京スプリング製作所に就職すると、すぐに超人的な努力で6ヵ月後、400余名の職工を組織し、同会の大島分会を誕生させた。
平澤の活動もあって、震災のあった大正12(1923)年には、治安維持法の前身である「過激社会運動取締法案」が国会に上程されたものの、労働組合の全国規模の共闘組織が生まれ、東京だけでも1万に及ぶデモや集会が組織され、同法案を廃案に追い込んだ。
震災から二日後9月3日、平澤の家に亀戸著の刑事が訪ねてきた。身柄を拘束された平澤は、習志野聯隊の兵士たちによって銃剣で刺殺された。その後、亀戸事件と言われる。
刺殺される時、平澤は「ここを突け」と額を指さしたものの、腹部を刺され、「労働者万歳!」と叫んで旅立った。
9月16日に、憲兵大尉の甘粕正彦らによって殺害された大杉栄たち(甘粕事件)同様、当時の権力者から危険人物とみなされた人々が、震災のどさくさの中で、殺害されたのである。
(17)震災前の福田村・静子と行商人
記憶が曖昧だったが、思い出したカット。これは震災前のことだった、はず。
時間軸では、(9)と(10)の間になるだろう。
智一との生活に疲れた静子が、荷物を片付けて家を出ようとするところに、讃岐の行商人の最年少信義が先輩と二人で立ち寄った。
薬の行商と伝えると、家の中に静子が入れ、お茶を出す。
信義が、感激する。
どうしたの、と静子。
俺たちにお茶なんて出してくれた家は初めてだ、と答える。
静子は、「あの人、すぐお腹くだすから」と胃薬を買い、それをちゃぶ台に置いて出ていく。
その後、(10)の静子と倉蔵につながる、はず。
(18)震災後の福田村・智一と静子(提岩里教会事件)
大地震で利根川が大揺れになり、岸から泥まみれで上がってきた静子を見つめる智一。
船で倉蔵と静子が抱き合う姿を見ていたのに、黙っていたことを、静子は「どうして、やめろって叫ばなかったの」と責めるが、智一は、じっと静子を見つめる。
たぶん、この後だったと思うが、違う筋書きだったかもしれない。
智一は、背中を見せてしゃがむ。
黙って、おんぶされる静子。
映画のカットとしては、続いていないが、二人のその後について。
夜、静子は、四年前から智一が変わったこと、それがなぜか智一に問い詰める。
逡巡していた智一だが、意を決して話し始める。
日本統治下での京城(現ソウル)で教師をしていた智一は、朝鮮人の独立運動(三・一独立運動)の最中に発生した「提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)」で、現地にいた朝鮮人たちと日本軍の間の通訳をした。
その際、智一が日本兵から頼まれた内容を、彼は韓国語で静子に伝えた。
私が上映後に帰宅しネットで知った内容は、「私たちは、みなさんにお詫びに来た。だから、大人しく教会に入って待っていて欲しい」ということのようだ。
その後、教会に入った朝鮮人全員が殺害され、教会は放火された。
智一の話を聞き、茫然とし涙を流す静子。
「提岩里教会事件」について知りたい方は、こちらのWikipediaをご覧のほどを。
wikipedia「提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)」
冒頭部分のみ引用。
提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)は、1919年4月15日、日本統治下の朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で、三・一独立運動の最中に生じた事件。暴動を指揮した29名の朝鮮人が殺害された。暴動で殺害された日本兵もいたため、報復の意図もあって、こんな残酷な事件が起こったのである。
(19)千葉日日の恩田記者と朝鮮飴売りの女性
震災でがれきだらけの東京を取材していた恩田が千葉へ帰ろうとすると、路地から声がかかる。
新助たちに朝鮮飴を売った、朝鮮人女性だ。
一緒に歩いていくと警察に呼び止められる。
恩田が、新聞記者で取材に来ていた。これから帰るとことだ、と言うと、いったんは「通れ」と言う警官。
しかし、警官は一緒の女性の姿が気になり、「止まれ。こら、お前、『十五円五十銭』と言ってみろ」と詰め寄る。
朝鮮の人たちは「が行」がうまく発音できないための質問なのだった。
しかし、彼女は、一瞬の間の後、毅然として「私の名は」と本名を語った。
その言葉にうながされるように、発砲する警官。
社会主義者、朝鮮人といった人々が、大震災のどさくさで殺害されていた。
前回の記事で、9月3日の東京日日新聞をご紹介したように、それを煽ったのがメディアであった。
そんな時、行商人一行が、福田村に着いたのであったが、その内容は次回。
さすがに、記憶があいまいで、時間的に前後する内容になったが、なんとか、綻びを繕うことができたようにも思う。
今日は、飲食店のアルバイト。
雨のせいで、出前の依頼が続いた。端末が、ひっきりなしに「ピー」となった。
店のお客さんはそうは多くなかったが、出前と並行していたので、忙しかった。
土曜のバイト、昨日のテニスの後で、やや疲労感は、ある。
今週末、「怒涛の三日間」と自分で呼んでいる、私が担当するイベントがある。
来週もその後始末があるから、しばらくバイトはお休み。
本来、10月10日は晴れの特異日で、昭和39(1964)年、東京五輪の開会式が行われた。
その後「体育の日」の祝日となった。
しかし、ハッピーマンデーという、この時期の私にとって、ほとんどハッピーじゃない「スポーツの日」になってしまったから、寒い雨の日になってしまうのだ。
明日10日は、晴れ間もあるようだ。
お天道様も、勝手に記念日を変えるな、と怒っているのだろう。
