美濃部美津子さんを偲ぶ。
東京新聞から、引用。
東京新聞の該当記事
美濃部美津子さん死去 落語家の故五代目古今亭志ん生の長女、作家
2023年8月30日 07時30分
美濃部美津子さん(みのべ・みつこ=落語家の故五代目古今亭志ん生の長女、作家)26日に死去、99歳。東京都出身。葬儀・告別式は30日正午から東京都文京区小日向2の19の7、還国寺で。
ニッポン放送などに勤務し、昭和の名人といわれた父のマネジャーも務めた。父と、弟である故十代目金原亭馬生と故三代目古今亭志ん朝の素顔を描いた著書に「志ん生一家、おしまいの噺」「三人噺」など。
美津子さんは大正13(1924)年1月生まれ。
私の父が大正11(1922)年2月生まれで一昨年11月に満99歳で亡くなっていているので、ほぼ同じような時期での旅立ちということになる。
美津子さんは、父志ん生が売れない時期、美濃部家を母りんさんと一緒に支えた。
NHK大河「いだてん」では、小泉今日子が、美津子さんを演じた。
美濃部美津子さんの本『三人噺ー志ん生・馬生・志ん朝ー』からは、何度か記事を書いた。

美濃部美津子著『三人噺ー志ん生・馬生・志ん朝ー』
同書は、単行本が、志ん朝が亡くなった翌年の発行。
私は、その三年後に出された文庫で読んだ。
三年前の夏に紹介したのが、志ん朝の「うなぎ断ち」のことだった。
2020年8月20日のブログ
再度、ご紹介。
うなぎ断ち
志ん朝が亡くなってしばらくして、あたしの友達があたしを力づけようっていうんで、有名なうなぎ屋さんに連れてってくれたことがありました。そんときにね、うま重とお猪口を一つ多く頼んだの。
「お三人さんなのに、四ついるんですか?」って、お店にお人に言われたんで、
「ちょっと、陰膳をしたいから」
志ん朝に、と思ったんですよ。あの子にどうしても、うなぎを食べさせてあげたかったの。
あたしはずっと、志ん朝はうなぎが嫌いなんだとばっかり思ってたんです。ウチは皆うなぎが好きだったんだけど、ただ一人、志ん朝だけは食べなかったから。
それがそうじゃないってわかったのは、志ん朝が出演したテレビ番組を見てたときのことなんです。司会の人に「最後の晩餐には、何を食べたいですか?」って聞かれたあの子が、「うなぎを食べたい」と答えたの。あたし、ビックリしたんです。嫌いだったんじゃなかったの? だったら何で食べなかったの? って。
実は志ん朝の守り本尊が虚空蔵(こくぞう)様でね。谷中に虚空蔵様を奉った小さなお寺があって、お正月やことあるごとに「芸が上達するように」というんで熱心にお参りしてたの。その虚空蔵様のお使いがうなぎだったんですよ。それでお母さんに、
「あんたのご本尊のお使いなんだから、うなぎを食べないほうがいいよ」
って言われたらしいの。それが志ん朝が噺家になった頃だから、十九のときね。以来、四十四年間、好きなうなぎをずーっと食べなかったっていうんです。それだけあの子は芸に身を捧げてたんでしょうね。
だから亡くなったときに、今なら心おきなく食べられるだろうと思ったの。
志ん朝の分のうな重を前に置いてね。お猪口にお酒をついで、
「強次、食べな。大好きなうなぎだよ。本当は好きだったのに食べないで、一生懸命頑張ったんだね」
亡くなってようやく食べることができたと思うと、あたしは胸が一杯になった。あの子は「おいしい」って、思ってくれたでしょうかねえ。
あらためて読んで、なんとも言えない思いになる。
芸のためとはいえ、そして、お母さんの言葉とはいえ、志ん朝のように自分を律することは、なかなかできるものではない。
12年前の馬生の命日に書いた記事で、同書から引用した内容。
2011年9月13日のブログ
あの子は絵だけじゃなくって、字も上手かったわね。前にお弟子さんが話してたんですけど、寄席の楽屋に筆が置いてあるでしょ。どの噺家さんが何の噺をしたか記しとく「ネタ帳」を書く筆。それが前座さんがちゃんと手入れしなかったとかで、墨で固まっちゃったりして、書きにくいったらありゃしない。でも、そんなひどい筆でも、お客さんから色紙を頼まれたときに、メザシの絵をすーっと描いてね。脇んとこに「メザシにも鯛に勝れる味があり」って、またすーっと書いたっていうんですよ。
「それが見事なんですよ。ボロボロの筆なのに、それこそ涼やかにメザシを描いちゃうんですかってくらいに」
書いた文章も馬生らしいって思いますよね。
ボロボロの筆で、すーっとメザシを描き、その脇に添えた言葉の素晴らしさ。
馬生のなんとも粋な一面は、美津子さんだからこその発見なのだろう。
2014年、志ん朝の命日に書いた記事では、その芸風に関する美津子さんの言葉を紹介した。
2014年10月1日のブログ
志ん朝の場合は、明るくて派手なしゃべり口調はお父さんの系統ですよ。志ん朝の芸風を「完璧な文楽型を目指した」と言っている人がいるらしいんですが、あたしはちょっと違うんじゃないかと思ってるんです。確かに噺としては完璧でしたが、その日の気分によってくすぐりの入れ方が違ったり、いい加減というかフラ(持って生まれた個性や味)のいいところはお父さんと同し。志ん朝は文楽さん的なキッチリした部分と、お父さんの雰囲気を混ぜるつもりでいたんじゃないでしょうか。
鋭い分析だと思う。
『三人噺ー志ん生・馬生・志ん朝ー』は、かつてニッポン放送のアナウンサーだった塚越孝、つかちゃんの聞き書きが元になっている。
つかちゃんは、私と同じ、昭和30(1955)年生まれだった。
つかちゃんと言えば、落語ファンは、フジポッドの「お台場寄席」を思い出すのではなかろうか。
「お台場寄席」からは、多くの落語の音源を収集したが、その中に、美濃部美津子さんとの対談も含まれている。
「志ん生を語る」という題で三回に分けて配信された。
この内容は、「極めつけ志ん生」という題で、美津子さんが選んだ志ん生の高座の音源と合せて3枚組で発売されたCDに収録されているようだが、そのCDを私は持っていない。
しかし、フジポッドの対談内容「志ん生を語る」は、iTunesに残っている。
今日、会社からの帰宅途中、あらためて聴いた。
つかちゃんが、志ん生没後32年33回忌の年と言っているから、平成17(2005)年の収録だ。
志ん生の小噺もある。
美津子さんに、絶妙な間で合いの手を入れる、つかちゃん。
昭和36年12月15日、高輪プリンスホテルでの巨人優勝祝賀会の、美津子さんの回想。
川上監督が会場に遅れたため、当初の予定が変わった。
本当は、志ん生の高座の後に会食のはずが、高座と会食と同時に始まった。
待たされてイライラしている上に、高座に上がると一斉に食事をはじめ、誰も聞いちゃいない。
カーッとなった志ん生、美津子さんはマクラ5分も話さないうちに倒れた、と振り返る。
船員病院へ運ばれ、医者から危険な状況を聞かされたので、その夜は、多くの噺家が病室で眠る志ん生を、最期のつもりで見舞いに訪れた。
つかちゃんが、「文楽も、円生も?」と聞く。
「みんな来ました」と美津子さん。
翌朝、奇跡的に快復した。
その志ん生が、美津子さんに言った言葉は「酒、買って来い」だったが、もちろん飲ませるわけにはいかない。
大酒呑みのように言われているが、晩酌はせいぜいコップ2杯で、3杯ということは、ほとんどなかった。
しかし、朝も、一杯。
おかずは、朝は納豆とみそ汁、夜は刺身、そればかり。
野菜は食べない、漬物大嫌い。
この音源を聴きながら、美津子さんの志ん生を回顧する言葉で、美津子さん、そして、つかちゃんを、私は回顧していた。
そして、美濃部家を支えていたのは、美津子さんだったのだなあ、とあらためて思う。
今頃、父は「美津子、酒!」と言ってるかもしれない。
明後日21日、志ん生没後、50年。

落語協会の2階「黒門亭」です。
わたしはすぐにそれと知れたのですが、
周りのご婦人たちが世間話をしているうちに有名な落語家一家の方だと分かり、
吃驚していました。
「三人噺」読み返してもようと思います。