『黒い雨』を読み直す(9)
2023年 08月 22日
井伏鱒二著『黒い雨』の読み直しの、とりあえずの最終回。

井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)
本書の主人公は、閑間重松。妻のシゲ子と姪の矢須子と暮らしている。
本書について拙ブログでは、古くは10年前に「芒種」を題材にご紹介した。
2013年6月4日のブログ
二年前の8月6日には、本書執筆のきっかけとなった『重松日記』について書いた。
2021年8月6日のブログ
本書は、被爆者の重松静馬『重松日記』のみならず、被爆した軍医の岩竹博による『岩竹手記』を元にしている。
今回は、岩竹手記を元にした部分をご紹介している。
手記には「広島被爆軍医予備・岩竹博の手記」という題がつけられていた。
本書では、この手記を岩竹さんの義兄である医師細川先生が主人公の重松に贈ってくれた、としている。
重篤な原爆症であった岩竹さんが快復に向っていることを知ることで、重松家に同居している同じ苦しみにある姪の矢須子を励ましたい、という細川医師の心遣いだった。
前回は、岩竹さんの奥さんの記録から、岩竹さんが庄原国民学校の収容所から府中の細川医院分院を経て湯田村の本院に移されたが原爆症を発症し、骨と皮の、病院にある骸骨の模型とそっくりだったことをご紹介した。
また、岩竹さんの甥御さんは、広島一中(現国泰寺高校)の一年生だったが、勤労奉仕中に被爆し、教室で座ったまま亡くなり、湯田村から同中に行っていた救護班の方から、残っていた真鍮板の名札だけが届けられたこともご紹介した。
岩竹さんの奥さんの述懐は、甥御さんの名札の部分までだった。
時期は重複するが、今度は岩竹さん本人の手記を重松が紹介する場面。
岩竹さんは手記のなかで、庄原の陸軍病院分院を出た前後のことを次のように云っている。
「耳のなかの蛆虫を取除いたためか、耳痛と熱発は取れたが衰弱は日増しに加わった。必ず生きられるという自負、絶対に死なないという自信が次第に影をひそめて来た。けれども、今ここでこの病気では死にたくない。どこか他の場所で納得の行う病気で死にたいと思うようになって来た。
8月23日に、あまり遠隔の地でなくて帰宅に自信のある者は、帰宅しても宜しいという許可が出た。自信はなかったが帰りたい一心で、藤高院長の許可を得て臨時招集解除の証明書を取った。東京までは無理だとしても、せめて湯田村の細川医院まで辿り着きたいと元気を出して、十五里離れた福山市外までの契約で木炭運搬の木炭車トラックを雇った。
白衣に戦闘帽を被らせられ、無我夢中で府中町の細川分院まで行きつくことが出来た。途中、怖るべきがたがた道であった。この道路の荒廃度の激しさは何を語っていたか、誰しもそれに気づいていた筈である。私は熱気の籠るトラックの助手席で幾度か迷妄状態になった。傍にいた介添の妻も疲労のため二度ほど失神状態になった。三時間の道程だが一年にも感じられた。
正に間一髪、生きるか死ぬか運命の二股道は紙一重のところにあった。翌24日から原子爆弾症が起ったのである。もう一日か半日か後れていたら、間違いなく庄原で無常の風に誘われていたことだろう。
私は半ば意識を失っているうちに、府中町の分院から湯田村の細川医院に移された。輸血、注射、注射。これは覚えている。少し意識が回復した。」
まさに、紙一重だったことは、岩竹さんの奥さんの述懐にあったように、庄原で同室だった方が、その頃に亡くなっていることからもわかる。
口の中全体が炎症のため、地元特産の桃を潰し、生卵と混ぜたものだけが岩竹さんの食事だった。
岩竹さんの手記に戻る。
「衰弱は極度に達し、幾度も意識を失うようになった。心音消失、呼吸停止、背中に巨大な褥瘡(じょくそう)を生じ、膀胱粘膜も剥離して尿閉を来たす有様で、これが助かるという医者は義兄の院長を始めとして誰一人いなかった。診察に立ち会った医者はみんな私を見放していた。頭の毛は痂皮(かひ)と共に鬘のようになってごっそり抜け落ちた。
私は最期の覚悟をして妻に遺言した。しかし助かった。枕元で泣き叫ぶ妻の声に気を取戻すと、いま心臓がとまっていたところだと云う。たぶん私の顔の皮は痙攣し、眼は吊りあがり、チアノーゼを来たして苦悶の表情をしたらしいが、私自身は比較的明るい広々としたところに浮きあがっているような気分であった。別段、苦しさは感じなかった。断末魔の苦しみという言葉があるが、本人は案外にも楽なものだと思った。しかし人が見たら苦悶しているように見えたろう。」
岩竹さんは、その後、一年半を要して、被爆による潰瘍が治り、骸骨のようだった体に、筋肉もついてきた。
岩竹さんの手記の最後の部分を含め引用。
「今では耳朶が一つ欠如して、酒を飲めば頬や手首の傷あとが赤くなるが、頑固な耳鳴りのほかは何等の後遺症もない。ただ耳鳴りは日夜ひっきりなしに遠寺の鐘のように鳴りつづけ、私自身にはそれが原爆禁止を訴える警鐘に聞きとれる」
シゲ子は九一色病院へ矢須子の見舞に出かけるとき、この手記を院長先生に治療の参考にしてもらうと云って持って行った。
岩竹博さんは、80年代までご存命だったとのこと。
その人生において、原爆禁止を訴える警鐘にたとえる耳鳴りを、岩竹さんは、最期まで聞いていたのかもしれない。
先日、BS テレ東で見た古関裕而特集の「長崎の鐘」を思い出した。
NHK朝ドラ「エール」でも紹介されていたが、あの歌は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆さんが、原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録した随筆が背景にある。
永井さんは、原爆で奥さんを失った。
サトウハチローの詩は、当時のGHQの検閲を想定し、露骨な表現はない。
しかし、歌の背景を知る人は、長崎の原爆被害を思い、平和な日本を希求する歌と受けとめている。
「長崎の鐘」とは、原爆で飛ばされたカトリック浦上教会(旧浦上天主堂)の「アンジェラスの鐘」のことである。
昭和26(1951)年、白血病で43歳で亡くなった永井隆さんの人生は、亡くなる前年に映画にもなった。
妻の役は、月丘夢路さん。
月丘さんが、昭和28(1953)年に製作され、昭和30(1955)年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した映画「ひろしま」にノーギャラで出演された方でもあることは、訃報に接した後に記事にした。
2017年5月8日のブログ
岩竹博さん、そして永井隆さん。
二人の被爆者だった医師が、手記、随筆で遺してくれた原爆の非人道性を伝える貴重な記録を、大事にしなくてはならないと思う。
藤山一郎の「長崎の鐘」が流れる映画の映像で、このシリーズを締めくくりたい。
長らくのお付き合い、誠にありがとうございます。
