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『黒い雨』を読み直す(8)


 井伏鱒二著『黒い雨』を読み直している。

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井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)

 本書について拙ブログでは、古くは10年前に「芒種」を題材にご紹介した。
2013年6月4日のブログ

 二年前の8月6日には、本書執筆のきっかけとなった『重松日記』について書いた。
2021年8月6日のブログ

 本書は、被爆者の重松静馬『重松日記』のみならず、被爆した軍医の岩竹博による『岩竹手記』を元にしている。

 今回は、岩竹手記を元にした部分をご紹介している。
 手記には「広島被爆軍医予備・岩竹博の手記」という題がつけられていた。

 本書では、この手記を岩竹さんの義兄である医師細川先生が主人公の重松に贈ってくれた、としている。
 重篤な原爆症であった岩竹さんが快復に向っていることを知ることで、重松家に同居している同じ苦しみにある姪の矢須子を励ましたい、という細川医師の心遣いだった。

 前回は、庄原国民学校の収容所に岩竹さんがいることを突き止めた奥さんが、ようやく庄原に着き、変わり果てた姿の岩竹さんに会えたことをご紹介した。
 岩竹さんは激しい耳痛に襲われていたが、8月14日、庄原日赤病院の耳鼻科の先生によって治療してもらうことで、耳痛は治った。

 その後のことを、引き続き、岩竹手記に含まれている奥さんの記録から確認する。

「私は庄原にいる間、伯母のうちに寝泊まりして収容所に通っておりました。細川の兄は伯母の家に一泊しただけで、看護婦と私の娘を連れて湯田村に帰りました。
 8月15日、終戦の日に主人は急に高い熱を出して虫の息になりましたが、翌日から少しずつ熱も下りました。でも、衰弱がひどいし手当もよくないし、細川のうちへ行くことにして、二十日の日に闇値で炭焼の木炭トラックを雇いました。(もうそのころは、患者はどこでも行きたいところへ行って宜しいという許可が出ておりました)私と主人が助手席に乗りまして、被爆患者の臭気を嫌ってマスクをかけた運転手と三人ならんで府中町へ参りました。主人の方がしっかりしておりました。私の方はもうくたくた。
 主人は府中町の細川分院に入って、その翌日から原爆症を起しました。ですから、庄原でもう一日もたもたしていたら、そこで死んでしまったでしょう。それは安心感のためとか、今まで気力で持っていたということではなくて、ちょうど被爆してからそのくらいの期間が経つと原爆症を起すということです。ですから庄原で主人と同室だった長島さんも、主人よりはずっと軽症でしたけれども、私たちが府中町に着いた日にお亡くなりになっています。」

 まさに、間一髪、というところで、岩竹さんは命拾いしたのだと思う。

 奥さんのおかげであり、芸備線の塩町駅で、府中へ行く方に奥さんが会えたという運にも恵まれたと言えるだろう。

 原爆症の発症により、岩竹さんは府中の分院には二日だけいて、湯田村の細川医院本院に移った。

 歯齦(はぐき)も唇も含め炎症でやられているため、湯田村の名産でもある白桃と玉子を口に流し込むのが、岩竹さんの食事だった。
 
 9月に入った。

「そのとき主人は虫の息で遺言をしました。遺言をするときには口がきけるものでございます。そして、聞きわけもいいものでございます。私、主人に申しました。あなたの遺言通りに致しますから、交換条件に、今から後は思い残しのないように治療させてもらいたいと申しました。
 主人はこの交換条件を承知してくれました。でも、輸血をして、それからリンゲルをさせますと、熱が非常に出て苦しがりました。もう止してくれと云うので、それだけはさせてくれ、それでいけなかったら諦めるから。そういう交換条件を出しまして、リンゲルと輸血をして、それが良かったのかどうか分りませんけれども、次第に持ち直して行きました。でも、左の腕が化膿しました。リンゲルのためではなくて、一種の敗血症のためだろうと云うのです。それも他人には手術させないで、細川の兄が府中の分院へ行って留守のときに自分でメスで切りまして、今でもその後が残っています。なかなか頑固ですから切開手術は他人にはさせません。
 ほんとうに、そのときは木乃伊のようになりまして、骸骨と同じでした。ちょうど細川のところの置物に骸骨の標本がございまして、それが主人とそっくりでした。」

 自分でメスを入れる、というのも岩竹さんの生きるための熱情の表れなのだろうか。

 岩竹さんの奥さんの記録は、甥御さんのことも含んでいる。
 広島一中の一年生だった。
 同校の焼け跡を片づけに行った湯田村の特別救護班の方によると、甥御さんは、教室に座ったままで焼け死んでいたとのこと。
 
「あのころ中学生は名札をつっけることになっておりまして、これだけが残っていたと云って届けて下さる人がありました。真鍮板に名前だけ書いたものですが、やっと認識できる程度になっておりました、」

 今年7月に行われた広島一中の慰霊式典について毎日新聞から引用する。
毎日新聞の該当記事

「過去を繰り返し学んで後世に」 旧制広島一中・原爆死慰霊祭に60人
毎日新聞 2023/7/24 10:09(最終更新 7/24 17:56)

 旧制広島県立第一中学校(現・県立広島国泰寺高校)の原爆死没者慰霊祭が23日、中区の同校敷地内に立つ「追憶之碑」前であった。広島一中は爆心地の南東約850メートルにあり、教職員16人と生徒353人が犠牲になった。今回の慰霊祭で初めて生徒が司会を務めた。1年の井原賢杜さん(15)は「亡くなった先輩の存在の上に、今の広島の姿がある。過去を繰り返し学んで、後世に伝えていきたい」と話した。

 慰霊祭には当時の在校生2人や遺族約60人などが参列。校内にも同時配信され、全校生徒約900人が黙とうした。生徒会長の2年、城山遥香さん(16)は「先輩の姿を想像すると、苦しみ、憤り、悲しみ、さまざまな感情が入り交じる。戦争の記憶を受け継いでいくことが私たちに与えられた使命だ」と追悼の辞を述べた。

 78年前の8月15日、広島一中では、高学年では他の場所へ勤労奉仕に行く生徒が多く、一年生の多くが、学校に残り奉仕活動をしていた。

 慰霊祭に参列した在校生は、90歳代の方だろう。
 亡くなった人の犠牲の上に現在がある、という表現は、誤解を生む。
 そんな犠牲は、今後あってはならない。

 
 岩竹さんのその後については、次回。

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by kogotokoubei | 2023-08-18 12:54 | 反戦 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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