『黒い雨』を読み直す(6)
2023年 08月 14日
井伏鱒二著『黒い雨』を読み直している。

井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)
本書について拙ブログでは、古くは10年前に「芒種」を題材にご紹介した。
2013年6月4日のブログ
二年前の8月6日には、本書執筆のきっかけとなった『重松日記』について書いた。
2021年8月6日のブログ
本書は、被爆者の重松静馬『重松日記』のみならず、被爆した軍医の岩竹博による『岩竹手記』を元にしている。
今回は、岩竹手記を元にした部分をご紹介している。
手記には「広島被爆軍医予備・岩竹博の手記」という題がつけられていた。
本書では、この手記を岩竹さんの義兄である医師細川先生が主人公の重松に贈ってくれた、としている。
重篤な原爆症であった岩竹さんが快復に向っていることを知ることで、重松家に同居している同じ苦しみにある姪の矢須子を励ましたい、という細川医師の心遣いだった。
岩竹さんは、なんとか庄原国民学校を使った仮収容所に辿り着き、その内容はともかく治療を受けることができた。
8月10日午後、自分の名前を呼ぶ声が聞えてきた。それは、紛れもなく妻の声であった。
この手記のなかに、岩竹さんの奥さんが当時のことを回想的に語った記録が入っている。岩竹さんの奇蹟的な恢復について、奥さんが誰かに質問されて答えるのを速記にとったものだろう。これは矢須子の治療法の参考になるのではないか。
「あのころ私は福山市外湯田村の細川医院に疎開しておりました。私の主人の岩竹は広島第二部隊に軍医予備員として入営し、主人が親代りになっている甥は広島第一中学に行っておりました。湯田村の細川は私の実兄でございます。
8月8日の晩は福山の空襲であいた。その翌朝からは、福山へ通じる福塩線も井笠線もみんな不通になったので、9日の朝早く、細川の兄が湯田村から福山まで私を自転車の後に乗せて送ってくれました。それから私は草戸(くさど)まで歩いて参りました。草戸から鞆(とも)ノ津に出て、鞆ノ津からバスで尾道の手前の松永へ、松永から汽車に乗って、日が暮れて広島に着きました。草戸、鞆ノ津、松永、尾道を経て広島へ。これは昔の平家の一部の落人や足利尊氏など、陸路を西海に落ちのみて行くときの道筋であったそうでございます。」
調べてみると、現在なら、草戸から広島まで最短距離で100kmほどで、車なら1時間半ほどだが、当時、この100kmの道のりは、大変だったとことだろう。
引用を続ける。
「広島の駅前には天幕が張ってありまして、私はその天幕のなかに入って夜が明けるのを待ちました。兵隊さんが番兵をして、行き暮れた人らしいのが幾人も寝転んでいらしゃいました。私、湯田村を出発いたします前、細川の兄が行っても駄目だから止せと留めたのですが、どうも生きておるような気が致します。それで主人は酒好きなものですから、薬瓶に酒をいっぱい詰めたのをリュックサックに入れまして、それから兄に赤十字のマークの腕章を借りて、従軍看護婦か何かのように見せかけて行きました。その腕章が無いと女は誰も広島市内へ行けませんでした。服装はモンペに草履でした。」
その後、岩竹さんの奥さんは、陸軍第二病院跡を訪ねたが、そこは兵舎も何もない焼け野原だった。天幕のなかに残っていた将校から軍の通知があるまで郷里へ帰るように言われ、氷砂糖とお茶をもらった。
とにかく、どこか探してみようと川に沿って歩いていた。
「ほんとうに恐ろしい爆弾だと思いました。通りすがりの人に聞きますと、やはり新型特殊爆弾というのが落ちたそうで、その人の仰有(おっしゃ)るには、陸軍病院の兵隊が被爆して収容されたことも知っているとのことでしあ。それで私、どこでも探してみたいから教えて下さいと申しますと、収容しているところは三箇所あると仰有いました。でも、取りのぼせてしまっていて、ただ一箇所、戸坂というとkろおだけ耳に残りました。偶然なんでございます。あとの二つは忘れました。いずれにしましても一度に三箇所を尋ねることは出来ません。とにかく戸坂を探したら、後はまた何か噂を聞いて次を探して歩こうと思って、戸坂しか覚えませんでした。戸坂は広島から三里くらい。歩いて行って村に入ったのがお昼前の11時ごろ。土手をずっと歩いて行きました。それにしても陸軍病院跡の天幕のなかで、なぜ将校の方が収容所を教えて下さらなかったか腑に落ちません。」
まったくその通りで、第二病院跡にいた将校は、氷砂糖とお茶をあげる優しさがあったのに、なぜ、収容所のことを教える気遣いがなかったのか、不思議だ。
岩竹さんの奥さんは、戸坂で農家を一軒ずつ尋ねながら、午後4時頃、仮収容所のある国民学校に辿り着いた。
「岩竹、おりませんか。岩竹、おりませんか」と廊下や教室で呼びまわっても返事がない。
疲れ果てた奥さんは、一軒の農家の縁側で休ませてもらった。
「かれこれ二、三時間も休みましたでしょか。また国民学校へ戻りました。そうしましたら、今度は収容者の名簿が出来ていて、岩竹は庄原の国民学校の方へ昨日転出されたと聞かされました。怪我の軽い人だけ転送されたというので安心しました。でも、その喜びも束の間で、通りすがりの人に聞くと、みんなふらふらの恰好をして死にかけている者ばかりだったというのです。」
ようやく夫が庄原にいることを突き止めた奥さん。
なんという、執念というか、夫を想う強い愛情なのだろうか。
とても、我が家のかみさんには・・・期待しちゃいけないよね。
その後については、次回。
明日は、敗戦記念日。
決して、終戦記念日ではない。
飲食店のアルバイトは、さすがに今日あたりは皆さん自宅か実家ということか、そして、台風の影響の雨もあり、先週に比べては暇だった。
かみさんとユウの散歩のあと、冷たいビールが待っている。
