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『黒い雨』を読み直す(3)


 井伏鱒二著『黒い雨』を読み直している。

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井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)

 本書について拙ブログでは、古くは10年前に「芒種」を題材にご紹介した。
2013年6月4日のブログ

 二年前の8月6日には、本書執筆のきっかけとなった『重松日記』について書いた。
2021年8月6日のブログ

 本書は、被爆者の重松静馬『重松日記』のみならず、被爆した軍医の岩竹博による『岩竹手記』を元にしている。

 今回は、岩竹手記を元にした部分をご紹介している。
 手記には「広島被爆軍医予備・岩竹博の手記」という題がつけられていた。

 本書では、この手記を岩竹さんの義兄である医師細川先生が主人公の重松に贈ってくれた、としている。
 重篤な原爆症であった岩竹さんが快復に向っていることを知ることで、重松家に同居している同じ苦しみにある姪の矢須子を励ましたい、という細川医師の心遣いだった。


 少し復習。
 78年前の8月6日、爆心地から1kmという近距離の陸軍第二病院で被爆した岩竹さんは、途中、同僚の医者伊藤さん、三好さんと合流し、命からがら、戸坂(へさか)の国民学校に出来た収容所に辿り着いた。

 翌7日。顔は腫れあがり、指で瞼を明けなければ目が見えない状況で、重症患者の教室に運ばれた。
 それが、三好さんとは今生の別れとなった。


 岩竹さんはこの日の自分の病状を次のように書きとめている。

「私の移された教室には、軍医予備員は一人もいなくて一般兵科の若い重症者ばかり集められていた。喉が渇いてやりきれなかった。体じゅうの骨が、ばらばらになるような気がした。激しい悪寒がして熱が出た。39度以上あったろう。瞼が腫れ上がったため、寝ているほかに仕方がない。8月7日、稀粥(きしゅく)一杯を支給された。排尿は二日間に一回あっただけ。
 水を飲んではいけないと禁じられていたが、遂に堪えられなくなって、片眼を指で開きながら、こっそり掘抜井戸まで辿りついて飲んだ。鉄気(かなけ)くさい水だが蘇生したような元気が出た。校庭の天幕は六張りに殖えていたが患者はまだ溢れていた。屍体は運動場の端の方にかためて並べてあった。
 夜になると患者の唸る声が更にひどくなった。教室の窓からやにわに飛出して水田の中を歩く脳症患者もいた。一夜のうちに約三分の一近くの者が静かになった。冷たくなった屍は一体ずつ担架でこっそり運ばれて行く。私は火傷範囲からして絶対に死なないと自分を元気づけた。しかしながら、どう考えてもこんな大勢の負傷者が一時に出た原因が分らなかった。負傷者の姓名、階級、所属部隊、本籍地を、看護婦が調査して名簿を作って行った。私は家族宛に戸坂収容所にいることの連絡を依頼したが、やってはくれなかった。軍医らしき者は誰も診察に来なかった」

 「一夜のうちに約三分の一近くの者が静かになった」という文章が、重い。
 
 前回もご紹介したが、「広島平和記念資料館」のサイトには、当時の記憶を元に描かれた「原爆の絵」が掲載されている。
 「戸坂国民学校」で検索し確認できる20枚の絵から、また一枚ご紹介したい。
「広島平和記念資料館」サイトの該当ページ

 また、一枚お借りする。

『黒い雨』を読み直す(3)_e0337777_14371383.png


 データベースでは、このように記されている。
絵の内容校庭に木を積み上げ、その上に死人を置き火葬する。
作者名(カナ)高原 良雄(タカハラ ヨシオ)
作者名(英語)TAKAHARA Yoshio
当時の年齢34歳
寄贈者名
種別市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)
情景日時(時刻)19:00
情景場所戸坂国民学校校庭
情景場所旧町名安芸郡戸坂村
情景場所現町名戸坂出江二丁目
爆心地からの距離5,100m

 作者の説明を少し校正した、「展示の説明」の内容。

校庭に木を積み上げ、その上に死人を置き火葬する。
爆心地から5.25km 戸坂国民学校校庭(東区戸坂出江二丁目)
1945(昭和20)年8月ごろ
高原 良雄(原爆投下当時34歳、絵を描いた時の年齢63歳)

絵中解説
戸坂小学校校庭で毎日、今日は135名、今日は98名と続いて死人の山。
木を積み上げその上に死人の山、その上に木、その他を積んで焼いていた。
生きていればこそ社会の重要な人として働く人。
死んでみれば雑草に過ぎない。
中にもあどけない子ども!!子ども!! か弱い女性も多く見られた。
どうしてこんな無情なことが在っていいものか。
まだ多くの戦争犠牲者の出る事を止めるための犠牲になった広島市民は、なぜその責を負わされたか…。
自分は今こうして描いていても胸がこみ上げ涙する。世界の人よ、今一度考えてくれ。

 この方は、毎日百人前後が荼毘に付されていく光景を見ていたのだ。

 この絵を描いたのは、その光景から、ほぼ30年後である。

 瞼に焼きついて、忘れることができなかったに違いない。
 

 岩竹さんは、医者としての知見を元に、死なないぞと自分を鼓舞した。
 だから、こっそり担架で運ばれることはなかった。

 引用を続ける。
 
 8月8日の朝、突然に発表があった。患者の員数が多すぎるため、この仮収容所では手が届きかねるによって、備後の北部にある庄原(しょうばら)の陸軍病院分院に一部患者を転送する。
ついては、自己の体力において汽車に乗り得る自信のある者は申し出るように。そういう内容であった。
 事実、運ばれて来る被爆者の数は、死んで行く人よりも遥かに多かった。屍体を片づけると、すぐまた怪我人が運ばれて来る。教室のなかも校庭の天幕のなかも患者がいっぱいで、近所の農家までも納屋や木小屋のなかが満員になって、庭先にまで被爆者が臥(ね)ているということであった。広島市を中心とする周辺の市町村の国民学校は、戸坂国民学校と同じく緊急収容所になっていたらしい。だから遠隔の地に広く散らす必要があるわけだ。っさもなければ医者が足りないし、患者の何割かを野ざらしにして置かなければならないことになる。
「おい、緊急発表だ。みんな聞いておるか。いま云ったように、庄原の収容所へ行きたい者は申し出ろ。各自の体力において、庄原まで汽車に乗れる自信のある者は、手を挙げろ。戸坂から庄原まで三時間だ」
 衛生兵の声で繰返しえそう云うのが聞えると、
「庄原まで行きたい人、ありませんか。汽車に乗れる自信のある人、手を挙げて下さい。戸坂から庄原まで、汽車で三時間です」
 と国防婦人会の女の声が聞えた。
 岩竹さんは庄原と聞いて、仰向けに臥せたまま目蓋(まぶた)を指の先で明けて天井を見た。はっきりと板の木目を見ることが出来た。これなら戸坂の駅まで歩いて行けそうな気持がした。それで目を閉じ、元気を出して手を差しあげた。腕に力が入らなくて、手首から先がだらんとなった。

 驚くのは、原爆投下から二日後、戸坂と庄原をつなぐ国鉄の芸備線が運行していたということ。
 これには、ある逸話があるが、それは別途紹介したい。


 果して、岩竹さんは庄原へ無事に行くことができたのか。

 78年前の、今日のことである。


 飲食店のアルバイトが終わり、ドトールで涼みながら、メールを確認したり、ブログを書いたりしていた。

 明日9日、長崎の「県民祈りの日」の式典は、台風接近にともない参列者の安全確保を優先して、平和公園から屋内施設に会場を変更したうえで、被爆者のほか岸田総理大臣や各国大使といった来賓の参列を見送るなど大幅に縮小する、とのこと。

 これはやむを得ないとして、いちばん喜んでいるのは岸田総理ではなかろうか。

 被爆者から、なぜ唯一の被爆国日本が核兵器禁止条約に批准しないのか、という真っ当な要望を聞かずに済むのだから。
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by kogotokoubei | 2023-08-08 15:18 | 反戦 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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