『鰻の幇間』で思い出すこと。
2023年 07月 16日
今夏の土用の丑の日は、30日の一日のみ。
「夏」土用と書くのは、訳がある。
随分前に、「雑節」と「土用」について記事を書いた。
2011年7月20日のブログ
重複するが、あらためて。
土用は旧暦の「雑節」の一つ。
雑節とは、二十四節気や五節句以外に、「暦注」として旧暦時代の暦本に記載されていた。
今では忘れられたものもあるが、多くは現在でも年中行事として使われている。
雑節は、一般的には「節分」「彼岸」「社日」「八十八夜」「入梅」「半夏生」「土用」「二百十日」「二百二十日」の九つ。それ以外には、「初午」「盂蘭盆会」「中元」を加える説もある。
Wikipedia「土用」から引用。
Wikipedia「土用」
土用(どよう)とは、五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。
俗には、夏の土用(立秋直前)を指すことが多く、夏の土用の丑の日には鰻を食べる習慣がある。
各土用の最初の日を土用の入り(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は節分である。
だから、正確には、「節分」も年に四つある。
とはいえ、もはや土用は夏ということが深く根付いているので、夏土用の丑の日の風物について。
久しぶりに矢野誠一さんの『落語歳時記』から。

うなぎ 鰻屋の二階客なき焼け畳
鰻の幇間(うなぎのたいこ)
「浴衣を着て手拭ぶら下げてるんだからね、遠出はいけませんよ、
どっかで間に合わせようじゃねえか」
「よッ、近間結構ッ、どちらィいらしゃいます?」
「どうでえ? 鰻を食うか」
「よッ、鰻結構ですな、久しく鰻てえものにお目にかかりません、
あのレキでしょ? ノロでしょ? 土用のうちに鰻に体面なぞは
オツでげすな」
「鰻の幇間」
*
幇間(たいこもち)と、ひと言でいってしまえばそれまでだが、この職業もいろいろである。まさに、「幇間、あげての末の幇間」で、どこそこのだれにといわれるまでには、たいへんな修業だ。もっとも、なかには野幇間(のだいこ)なんてものもいる。こちらのほうは、古着屋で買った怪し気な紋付きをひっかけて、天丼ひとつご馳走になって、メリンスの長襦袢を出して深川を踊るといった、ごく安直な藝人。先代桂文楽の至藝でおなじみだった名作、「鰻の幇間」は、こんなしがない野幇間の、世にも哀しい物語なのである。
「幇間、あげての末の幇間」は、幇間をあげるなどの道楽三昧をした挙句に勘当されたりして、自ら幇間となった遊び人が多かったことをあらわしている。
今回は、文楽や志ん生のこの噺のことではなく、このネタで思い出す、噺家さんのこと。
まず、真先にこのネタ、というより「鰻」で思い出すと言うべきかもしれないが、古今亭志ん朝と鰻についての逸話だ。
以前も書いたが、志ん朝のお姉さん美津子さんの本に書かれていることを、再度引用したい。
2020年8月20日のブログ

美濃部美津子著『三人噺』
美濃部家の長女、美津子さんによる『三人噺ー志ん生・馬生・志ん朝』は、単行本が、志ん朝が亡くなった翌年の発行。
私は、その三年後の文庫で読んだ。
この本に、こんな逸話が紹介されていた。
うなぎ断ち
志ん朝が亡くなってしばらくして、あたしの友達があたしを力づけようっていうんで、有名なうなぎ屋さんに連れてってくれたことがありました。そんときにね、うま重とお猪口を一つ多く頼んだの。
「お三人さんなのに、四ついるんですか?」って、お店にお人に言われたんで、
「ちょっと、陰膳をしたいから」
志ん朝に、と思ったんですよ。あの子にどうしても、うなぎを食べさせてあげたかったの。
あたしはずっと、志ん朝はうなぎが嫌いなんだとばっかり思ってたんです。ウチは皆うなぎが好きだったんだけど、ただ一人、志ん朝だけは食べなかったから。
それがそうじゃないってわかったのは、志ん朝が出演したテレビ番組を見てたときのことなんです。司会の人に「最後の晩餐には、何を食べたいですか?」って聞かれたあの子が、「うなぎを食べたい」と答えたの。あたし、ビックリしたんです。嫌いだったんじゃなかったの? だったら何で食べなかったの? って。
実は志ん朝の守り本尊が虚空蔵(こくぞう)様でね。谷中に虚空蔵様を奉った小さなお寺があって、お正月やことあるごとに「芸が上達するように」というんで熱心にお参りしてたの。その虚空蔵様のお使いがうなぎだったんですよ。それでお母さんに、
「あんたのご本尊のお使いなんだから、うなぎを食べないほうがいいよ」
って言われたらしいの。それが志ん朝が噺家になった頃だから、十九のときね。以来、四十四年間、好きなうなぎをずーっと食べなかったっていうんです。それだけあの子は芸に身を捧げてたんでしょうね。
だから亡くなったときに、今なら心おきなく食べられるだろうと思ったの。
志ん朝の分のうな重を前に置いてね。お猪口にお酒をついで、
「強次、食べな。大好きなうなぎだよ。本当は好きだったのに食べないで、一生懸命頑張ったんだね」
亡くなってようやく食べることができたと思うと、あたしは胸が一杯になった。あの子は「おいしい」って、思ってくれたでしょうかねえ。
あらためて読んでみても、なんとも言えない思いになる。
芸のためとはいえ、そして、お母さんの言葉とはいえ、志ん朝のように自分を律することは、なかなかできるものではない。
そして、もう一人思い出すのは、「鰻の幇間」を、ある落語会の最後のネタに選んだ噺家さんのこと。
こちらも、以前に拙ブログで紹介した。
2016年5月29日のブログ
素人の噺家さんで、自らが癌になり、おなじ患者さんたちをお客さんとして「いのちの落語」という会を主宰なさっている樋口勉さんが、柳家喜多八が亡くなってから追悼文を同落語会のサイトに掲載されていた。
「いのちの落語」のサイト
拙ブログで引用した中から、一部をあらためてご紹介する。
2001年、私が生きるはずがないというがんに出会って5年が経ったとき、
「がんの仲間を招待して落語会をやりたい」と喜多八さんに話したら、
「アタシも(その高座に)上がらせてよ」
と、特別出演を買って出てくれた。
会場は上野広小路亭。
ここは落語芸術協会が定席として開業した場所で上野鈴本とは目と鼻の先。
落語協会の噺家さんが出演してはいけない高座である。(喜多八さんは落語協会所属)
「気にしなくていいんですよ。アタシでお役に立つんなら」
初回から13年間、毎年しびれるような迫真の高座であった。
博品館(毎回切符が取れないことで有名な喜多八独演会)でも見せたことのない落語の楽しさとすごさを、全国から集うがんの人たちに教えてくれた。
そして、2012年の高座でこう切り出した。
「アタシもね、この度、皆さんのお仲間に加えていただくことになりまして・・・」
会場から拍手が起こった。
喜多八さんがあとになって述懐する。
「がんを告白して拍手されるのはこの会だけだよ。けど温かいね」
一年に一度、東京深川に集う全国のがんの仲間たちが、喜多八さんの至芸に酔いしれ大笑いした。
喜多八さんがこの高座に掛けた噺の数は18席。
初回が『小言念仏』。そして、『粗忽の釘』、『やかんなめ』など大爆笑の得意ネタが続き、『明烏』、『船徳』と絶品芸がかかる。
そして、2013年。この会を卒業する最後のネタに選んだのは、とっておき『鰻の幇間(たいこ)』であった。
会場のがんの仲間たちは、「笑うと元気になれる」と、その高座から生きる希望と勇気をいただいた。
しかし、2013年の春、新幹線で移動中の私の携帯に喜多八さんから電話が入った。
「今年で終わりにさせてほしい」
「わかりました」
多くの会話は必要なかった。
喜多八さんは病気のつらさや苦しさを決して高座には出さなかった。
噺家としての美学を貫き通した人であった。
喜多八は、2016年5月に亡くなった。
その三年前、最後の「いのちの落語」で、喜多八は、ありったけの力を振り絞って、多くのお客さんを笑顔にしたに違いない。
その後も、寄席や落語会で、喜多八は、まさに鬼気迫るという印象の高座を残してくれた。
今夜、我が家は、鰻。
土用の前に食べるのも、オツなのである。
芸の上達のために、好きな鰻を断っていた志ん朝、同じ癌患者のお客さんへの最後の高座で、鰻にも優る、笑いという滋養を振る舞った喜多八のことを思い出す、鰻の夕べである。
一応一人前ずつ、でも小さかったなあ(うまいけど)。
