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池波正太郎著『牧野富太郎』より(14)


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池波正太郎『武士の紋章

 新潮文庫の短編集『武士(おとこ)の紋章』に収められている、「牧野富太郎」(初出は「小説倶楽部」昭和32年3月号)の十四回目。

 これが、文庫の目次。

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 少し、復習。

 富太郎は、矢田部の後任の松村教授からも妬み、嫉妬により、『大日本植物志』の発行を止めざるを得なくなった。
 東大助手としての俸給も、松村の妨害で据え置かれたままだった。

 寿衛子は、妻が料理屋を商いしていることへの誹謗中傷もあったので、料理屋を閉めることにした。

 なんとか蓄えから借金を返しても少し残るから、郊外に土地を買いましょうと寿衛子が富太郎に言う。

 将来、牧野植物園を開くのが夢だと語る寿衛子の話に、富太郎は子供のように眼を輝かせた。

 では、引用。

 寿衛子の夢は、二十数年後になって、どうにか、その半分は実現した。牧野植物園、とまでは行かなかったが、当時、東京府下だった大泉町に七百坪ばかりの土地を借り受け、此処に小さな家と、標本館を建てて、牧野一家の永住の地にしようとしたのである。ときに大正十五年の十二月であった。
 それまでの二十年間には、日本にとっても、富太郎にとっても、目まぐるしいほどの変化と事件があった。
 日露戦争後の軍備拡充、資本主義の飛躍的な発展により国力は膨張し、その反面、労働者や農民の社会主義運動が相次いで起った。韓国が日本に併合されて朝鮮となったし、大正三年に始まった第一次世界大戦後の戦争景気から軍縮時代が来る。ロシヤには革命が起り、そして関東の大震災。その後の不況時代ー資本は科学に結びついて、文明の発展は急激になり、そして社会と人間の生活の組織は複雑なものとなって、人間個人は社会の流れの中に揉み込まれて行き、牧野家のような貧乏学者の家計は、いよいよ苦しくなるばかりだった。
 人が人を信用して金を貸したり、借りたりするような、のんびりした時代ではなくなってきたのである。

 時代は目まぐるしく変化したが、富太郎の地位そのものは、大きく変わっていなかった。

 富太郎は、五十歳の明治四十五(1912)年に助手から講師に昇格したが、七十七歳の昭和十四(1939)年まで、27年間、講師のままだった。

 助手時代を含めると、46年に及ぶ。

 それには、周囲に富太郎を嫉む矢田部や松村の存在があったせいでもあるが、敵ばかりではなかった。

 引用を続ける。

 富太郎の苦しい研究生活は相変わらずだったが、次第に彼の力量と声望とが、世の中にひろまるにつれて、彼を支援する人々も増え、地味な学問ではあるが、出版社からも著書を出してくれるようになったし、三宅驥一(きいち)博士などの好意ある勧めと説得によって、富太郎も「日本植物考察」という論文を東大の教授会に出して、理学博士の学位を授与された。富太郎はこのとき六十六歳。今更、学位を貰うというのも可笑しい位の、植物学界の第一人者になっていたのだが、これが、学校を出ていない富太郎への圧迫もあったし、また富太郎自身も学位など欲しくはなかった。
 昔からの親友、池野成一郎が、
「君も、ここいらで、いいかげんに学位をとったらどうかね。博士になれば教授にもなれるし、従って収入も増え、奥さんも安心するだろう」
 というと、
「私ゃ、学位や地位なぞ欲しくないわね。一介の田舎書生牧野が、学界の大博士連中を向うに廻して、これに対抗してじゃね、彼等と大相撲をとるところにこそ愉快さがあるんだからねエ。学位があれば君、何か大きな発見や手柄をたてても博士だから当り前ちゅうことになるけん、面白くないのさ」
 だから学位を貰った直後に、彼は、
  何の奇も 何の興趣も消え失せて
    平凡化せるわれの学問
 などと狂歌をよんだが、しかし、その一方に、
  われを思う 友の心にむくいんと
    今こそ受けし ふみのしるし
 そうよんで、友人達の好意を感謝したのだった。
 博士になる十年ほど前には、松村教授一派の妨害によって、危く大学をクビになりそうなこともあったが、学生達や職員の中でも富太郎を支持するものが多く、大いに牧野免職反対の気勢をあげたし、その奇人ぶりは大学でも有名で、人気があり、新聞がこの事件を知って「学閥、人気助手を大学から追い出す」などと書きたてたので、大学もあわてて、免職をとりやめ、彼を助手から講師に昇格させるようなこともあった。
  長く通した我儘気儘 もはや年貢の納め時
 と句をよんで辞任を決意した富太郎も、
  蜃気楼人さわがせしまぼろしも 消えて痕(あと)なしもとの海山
 と、講師になったときに一首をつくって大学に止(とど)まった。この二つの句と歌は、大学時代の彼の強烈な、しかもユーモラスで楽天的な性格を、よくあらわしているものだ。彼は大学でも、学生達に骨身を惜しまず教えるかわりに、人の噂さや悪口などは平気の平左で、思うことはドンドンやり抜いたのだった。世の中に息をしている限り、どんな人間でも、或る程度は世渡りの駆け引きに自分を殺さなくてはならないのが常識とされているのだが、強情を通し抜いた彼は、偉いとか強いとかいうよりも、むしろ幸福な男だったといえよう。
 その代り、寿衛子も子供達も苦労した。
 神戸の金満家、池長孟(たけし)や、成蹊高女校長、中村寿二(としじ)、親友の農大教授、池野成一郎をはじめとする友人達などの物心両面からの援助がなければ、富太郎の研究も寿衛子達家族の生活も、その貧困に耐え切れなくなったかもしれない。

 一介の田舎書生が、大博士を向うに廻して大相撲をとるこそ愉快、というのが、富太郎らしさを表している。

 富太郎の句、歌にも、彼の天性とも言えるユーモア精神が横溢している。

 故郷佐川で、伊藤蘭林の寺小屋で猛勉強していた古典の素養もあったから、こういう創作もできたのだろう。

 矢田部や松村などのような秀才たちには、富太郎のような創作ができたのかどうか。


 あらためて、本来の学問とは何なのか、と思わざるを得ない。


 さて、富太郎にとって重要な支援者、相撲ならタニマチ、他の芸能なら旦那と言える池長孟について、Wikipediaで確認したい。
Wikipedia「池長孟」

 池長は、教育者であり、美術収集家だった方。

 育英商業(現育英高校)の校長を務めた人だ。

 富太郎との関係について、こう説明されている。

牧野富太郎と池長孟
 牧野富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。
 富太郎の窮状を知った渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載した。
 記事は反響を呼び、神戸から二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助、もう一人が当時25歳で京都帝国大学在学中の孟であった。
 12月21日、富太郎は壽衛夫人と共に神戸に向かう。孟は父、通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。

 調べてみると、昭和十六(1941)年に、池長研究所に保存されていた標本は富太郎のもとへ返され、現在、標本は首都大学東京牧野標本館に、研究所の図書等は高知県立牧野植物園に保管されているらしい。

 池長と富太郎との間には、紆余曲折あったようだが、困窮していた時に、池長が重要な支援者であったことは間違いないだろう。


 なんとか、周囲の支援もあって研究を続けることができ、理学博士の学位を得た翌年、富太郎に悲しい別れが訪れるのだが、それについては、次回。


 昨日は休みで、昼間、ふだんは見ないお昼のワイドショー的な番組にチャンネルが合ってしまい、猿之助問題を取り上げていたので、つい少しだけ見ていた。

 内容は、明治座で猿之助の代役をした、隼人や團子を持ち上げるだけ持ち上げている。
 
 そういったメディアのヨイショもあって、明治座は盛況らしい。

 ついこの前まで、猿之助を持ち上げていたのに、なんと変わり身の早いことか。

 夜の部は、早変わりが見どころらしいが、テレビの早変わりは、見ていて腹が立つ。
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by kogotokoubei | 2023-05-24 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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