池波正太郎著『牧野富太郎』より(7)
2023年 04月 30日
昨日は、残り少ない飲食店のアルバイトが夕方からラストまでだった。
昼間も忙しかったようだし、私のシフトの間も、そこそこのお客さん。
常連さんが多かった。
ロウソクの日が消える前、ということかな。
今日は、日曜恒例のテニスだったが、起きると天気予報通りの雨。
午前中の予約なので、早く決行か中止か決める必要がある。
仲間からLINEで、やるか休みかの決(?)を取る連絡あり。
外に出ると、降っている。
天気予報では、午前中は止みそうにない。
水はけの良いオムニコートだが、小雨でも降っている間は、足下は濡れているだろう。
バイトの疲れも、正直残っている。
休みに一票投じた。
他のメンバーも休みが過半数となり、休み。
中止と決めたとたん雨が止むというのも、よくあること(^^)
映画にでも行こうかと思ったが、上映中の作品に、まったく食指が動かない。
ゴールデンウィーク用の子供向け映画ばかり。
まだ、少なくはなったが『生きる LIVING』は続いている。
ということで、この本。

池波正太郎『武士の紋章』
新潮文庫の短編集『武士(おとこ)の紋章』に収められている、「牧野富太郎」(初出は「小説倶楽部」昭和32年3月号)の七回目。
これが、文庫の目次。

東京大学の矢田部良吉教授が、『大日本植物志』を出版した富太郎の活躍、名声を妬み、同じような植物志を発行するから、富太郎にはもう植物研究所に出入りしないでくれと言った。
さて、その後の富太郎はどうなるのか。
なんといっても大学研究室に設備された、和漢用の書物や、器械、それに全国から集められた植物の標本がなくては、富太郎の研究も、まことに頼りないものになる。
「先生。それは私、何と申し上げてよいかーいま此処で大学へ来られなくなったら、自分の研究に、手も足も出なくなりますけん」
何時(いつ)の間にか、助手の松村任三が入って来て、
「牧野君。だからね、出版をやめなさい、植物志のーそうすれば先生も・・・・・・」
富太郎は困惑と同時に、強い不満も示した。
(何て気の小さいことをいうんじゃろ、この先生達はー)
この富太郎の表情を素早く見てとると、矢田部はニンマリと微笑して、
「君は、自分一人でもって、植物志をやりたいんだ。ね、そうなんだろう?ーしかしね、日本全国の一木(もく)一草(そう)に至るまで、これを調べつくして本にのせるなどということは、いくら君の郷里の家が金持ちだって出来やしないよ。日本の学問である以上、やはりに日本の大学によって学界に貢献すべきじゃないかね」
松村は擦り寄って来て「あやまり給え」と、しきりに囁くが、何の為にあやまらなくてはならないのか富太郎にはサッパリ吞み込めない。
「君は、つまり趣味として植物学をたのしんでいればいいんだよ。ね、これ以上、専門家の領域に首を突っ込むことはないんだものな」
とうとう矢田部は本音を吐き出した。
蛇足だが、私は矢田部を、映画『生きる』で助役に扮した中村伸郎をイメージして、本書を読んでいる。
『生きる LIVING』は傑作だが、原作の助役に当たるジェームズ卿のマイケル・コクランよりは、中村伸郎の方が、はるかに役者としては上である。
引用を続ける。
さすがに富太郎も、事態を察してきてムカムカと憤懣が胸に突き上げてきた。こうなると、お坊ちゃん育ちで世俗的な妥協をしたことのない、しかも血気盛り富太郎だけに、
「大学を出なければ専門家ではないといわれるんですかッ」
「もうよろしい。これでおしまいだ」と、矢田部は切りつけるようにいって椅子から立ち上がった。
「せ、先生。私は植物学に命をかけてやっとります。この学問に打ち込む以外、生きる幸福(しあわせ)がないのですけん」
「いやア、君の趣味だよ。趣味々々」
矢田部が、硬強(こわば)った薄笑いを浮べて、そういい捨てて、研究室から出て行こうとするのを、富太郎は思わず、すがりついてしまった。
「そりゃ、私は一介の田舎書生です。しかし、何とか今まで通りの便宜をおはかり下さい」
「だから、牧野君、本の出版はやめなさい。ねー」
松村助手が、また口をはさむと、富太郎は、どっと涙が溢れてきた。
「駄目々々。松村君。この人は、大変な自信を持っておられるんだからね」
と、矢田部は、富太郎に、
「君には君の、大いなる抱負と見解がある。自分一人の腕で、何から何までやってのけて、大評判をとりたい。そうなんだろう? ハハハー若いんだねエ、君はー大学という処(ところ)はね、君ごとき若い書生さんの思うようには、なかなかならないんですよ。世の中には順序というものがある。コンモンセンス(常識)というものがあるんだからね」
「先生。牧野は大学の職員でも学生でもない。しかし、日本の植物学ちゅうもんは、学者の数も少なく、世界の水準には、実に遠いのですけん。よって、私のような若い植物学者に対しては、大先輩である先生が後進のもんを引き立てて、その研究に協力してくれるべきです」
いざとなると、富太郎は言葉に飾りをつけず、ズバズバといい出す。
松村助手も、懸命に矢田部をなだめてくれた。
矢田部も苦い顔で、
「じゃア、牧野君。君が『大日本植物志』の出版をとりやめれば、大学の出入りは許そう」
そんなことは、死んでも出来なかった。
「私は、私独自の研究法でやっちょちますけん。一人のほうが自由に研究が進むのです。それですけん、どうしても一人でー」 矢田部は止(とど)めを刺した。
「以後、大学へ顔を出すことはを禁ずるよ」
そして、さっさと研究室を出て行ってしまった。
矢田部の行動は、今なら、パワハラ、と言われるのかもしれない。
しかし、富太郎は、助手でもなければ学生でもないことを考えると、これまで研究室に出入りさせてあげただけでも、矢田部には、同情の余地があると思う。
もちろん、矢田部に、もっと度量の広さがあれば、富太郎の遇し方は他にあっただろう。
さて、この後、富太郎、そして、妻の寿衛子は、どうなるのかについては、次回。
高知新聞が、昨年牧野富太郎生誕160年を記念し、「シン・マキノ伝」というシリーズを掲載していることは、前にもご紹介した。
ちょうど、その20回目に、矢田部との決裂を書いており、二十歳台の富太郎の写真も掲載しているので、拝借した。
高知新聞サイトの該当ページ

なかなかに凛々しい表情だし、二枚目、と言ってよいのだろう。
そして、その澄んだ目に、どんな壁があっても自分の信じる道を信じて生きる、という気概を感じる。
大学に進学するつもりはなかったのでしょうか?
ご両親が早逝されてしまったのが影響しているのかもしれませんね。
「TOKYO MERー走る緊急救命室」は上映されたばかりです。
すでにご紹介したように、新制の小学校では、伊藤蘭林の塾ですでに学んだことばかりなので、二年で自主退学しました。
富太郎は、酒屋の家を継ぎながらも植物の研究を続けるつもりでしたから、学歴には興味ありませんでした。
あくまで、彼の興味は木や草のことであって、もし、大学に進んでいても、興味のない科目はさぼって野や山を歩き回っていたことでしょうね。
