池波正太郎著『牧野富太郎』より(5)
2023年 04月 25日
ということで、NHKの朝ドラ「らんまん」を見ることができた。
牧野の最初の妻に関わる内容だったが、この脚色は、どう評価したらいいのだろう。
富太郎の最初の妻牧野猶については不明な点も多いが、富太郎の従妹で三歳下と言われている。
「らんまん」では、富太郎より年上、という設定。
牧野猶は、高知県立女子師範を卒業した才媛。
祖母浪子が、家業安泰のため二人を結婚させるつもりだったのは、史実の通り。
まぁ、朝ドラや大河では、これ位の脚色は序の口、とも言える。
昨日は、旧暦とはいえ、牧野富太郎の誕生日だった。
文久2年4月24日は、西暦なら1862年5月22日。
そういうこともあって、今朝の朝日新聞コラム「天声人語」で牧野富太郎を取り上げていた。
しかし、旧暦、とは書いていなかったけどね。

池波正太郎『武士の紋章』
新潮文庫の短編集『武士(おとこ)の紋章』に収められている、「牧野富太郎」(初出は「小説倶楽部」昭和32年3月号)の五回目。
これが、文庫の目次。

前回は、富太郎は地元佐川の伊藤蘭林の塾で幅広く学び、新たにできた小学校では、ほとんど学んだことばかりだったので、二年で自ら退学したことをご紹介した。
NHKの朝ドラ「らんまん」も、その時期のことを放送していた。
十代最後の年、上京したことについて、池波は、ややあっさりとこう書いている。
明治十四年に一度、上京して、洋書や顕微鏡などの器械を買い込んだり、板垣退助の結成した自由党の一員になって、国会を開く運動に加わり高知で気勢をあげたりしたが、これにも身が入らず、明治十七年、二十三歳で再び上京したときには「土佐植物図録」という、佐川町で採集した植物の目録を完成していたのである。
朝ドラで描いていたように、最初の上京は、第二回内国勧業博覧会への出展がきっかけ。
しかし、朝ドラが描くように、この時、その後妻となる小沢寿衛子と出会ったとは思えない。
出会いは、二度目の上京以降のことだろう。
このシリーズ二回目の記事で紹介したように、麹町三番町の下宿から本郷の東大に行く途中の今川小路に、寿衛子の店があった。
引用を続ける。
麹町の若藤家に下宿して、東京大学へ、植物学の教授、矢田部良吉を訪問したのもこの頃だった。
矢田部は嘉永四年生れというから、その頃、三十三、四歳、すでのアメリカのコーネル大学で植物学をおさめていて、日本の植物学会界では一流の権威だといってもよい。矢田部は、この土佐から出て来た、素朴で、熱心で、利巧そうな青年に好感を持ったらしく、
「おーい、四国の山奥から植物が大好きだという青年が現れたぞ」
と、助手の松村任三(じんぞう)にも紹介してくれたりした。松村も一目で牧野を好ましい青年と見て、
「大学には、本もあるし、植物の標本もあるし、よかったら、ときどき遊びに来なさい。ねえ、矢田部先生・・・・・」
「いいとも、自由に出入りしていいよ」
二人ともやさしくいってくれたので、富太郎は飛び上がりそうになった。
富太郎は、東大の植物学教室へ毎日のように出入りして、当時の学生たちとも親交を結んだ。
なかでも、池野成一郎とは、終生変わらない親友となった。
富太郎が大学の設備と蔵書を利用して勉学に熱中しながら、これらの友人達とはかって、日本植物学史上、記念すべき「植物学雑誌」を発行したときにも、矢田部教授は、これを歓迎してくれて、
「日本の植物学は世界的に遅れている。新しい植物を発見しても、何という名前かわからず、外国の学者に見てもらって、名前までつけてもらうようでは、これからは困る。君達、若い人達が、どんどん進歩してくれなくてはね」
富太郎が故郷で発見した未知の草に、〔ヤマトグサ〕という和名をつけて、この「植物学雑誌」に発表したのは、間もなくのことである。日本で、日本人の手によって初めて発見された草に日本人が名前をつけたということは、これが初めてだといってよい。
チョンマゲ時代から名前の知られている植物の名は、多く支那から伝わったものだし、それまでは、植物の分類の土台が、日本の植物学者に固まっていなかったわけだ。
富太郎は、この後、自分が描いた植物図を入れた植物誌の出版をしようとした。
しかし、そのためには、多額の費用がかかる。
さて、植物誌は、完成してのかどうか。
その後のことは、次回。
今朝の「天声人語」は、現在、「牧野記念庭園」で企画展が開かれていることも紹介している。
こちらが、同庭園のサイトにある、展示会「牧野富太郎 草木とともに」の案内のページ。
「牧野記念庭園」サイトの該当ページ
案内を拝借した。

いい顔してるね。
なんとか、私も行きたいと思っている。
