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池波正太郎著『牧野富太郎』より(2)


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池波正太郎『武士の紋章

 新潮文庫の短編集『武士(おとこ)の紋章』に収められている、「牧野富太郎」(初出は「小説倶楽部」昭和32年3月号)の二回目。

 これが、文庫の目次。

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 短い前回の記事は、池波が牧野に魅了されたのは、土門拳の「風貌」という写真集にあった牧野の写真の眼が、あまりに美しかったからだった、ということをご紹介した。

 昭和32年に新国劇で上演された「牧野富太郎」の脚本を書いた池波は、その“眼”の持ち主を訪ねる。

 武蔵野のおもかげが、まだ濃く残っている大泉の、冬枯れの雑木林に囲まれた牧野家を訪れ、私は、ここ一年余というものはベッドへ寝たっきりの牧野博士にお目にかかった。
 二、三日前までは、かなり重篤だったが、今日は気分がよろしいのですよ、と令嬢の鶴代さんがいわれた。鶴代さんは五十七歳で、博士の秘書役をしておられるそうだ。
 博士は、衰弱で子供のように小さくなった体をベッドに埋め、鶴代さんが耳元で大声でいわれる私の来意を聞くと、非常によろこんで下すって、
「御厄介かけますナ。何分よろしく・・・・・・」
 と、かすれてはいるが、少女のように優しい声でいわれた。
 そして、
「わしも、わしの芝居を見に行くぞウ」
 と、鶴代さんに向って、少年のような好奇の眼をクリクリと動かせては、はしゃいで下さる。
 博士の眼は、私の想像よりも、もっと美しかった。
 九十余年もの人生を一つの仕事に、それも好きで好きでたまらない植物学だけに打ち込んで来られた幸福さが星のように、その眼の中にこもっている。
 この幸福は博士一人でかち得たものではない。
 何時(いつ)の世にも男が立派な仕事と幸福を得た蔭に、必ず女性の愛情がひそんでいるように、博士にも、亡き奥さんの人生が博士の人生へ強烈に溶け込んでいるのだった。
 博士が、病床から何時も眼を向けていられる位置の壁に、奥さんの写真がかかげてあった。
 付添いの看護婦さんが、こんなことを私にいった。
「あの、先生はネ、ときどき、じいっと奥さんの写真を、このベッドの上からごらんになってましてネ、小さい声で、寿衛子(すえこ)、寿衛子って、呼びかけられるんですよ」
 博士の眼は、今でも眼鏡なしで新聞を読むそうである。


 この後、牧野富太郎の人生が語られていく。

 では、第一章をご紹介。

 一
 
 二十九歳の牧野富太郎が、神田、今川小路の小さな菓子屋の娘、小沢寿衛子と結婚したのは、明治二十三年の夏である。富太郎は、当時、上京して麹町三番町の官吏の家の離れに下宿して、植物学の研究を続けていた。本郷の東京大学の植物学教室へも出入りしていたので、学校へ行く途中に通る今川小路で、甘党の彼は、ふと入って菓子を買った、その店の娘を一目で見染めた。
「その娘を、もう、もらいたくてもらいたくて、わしの知人で神田錦町の印刷屋の主人が、さばけた人でね、間に入ってくれよったんです。つまり、ひとつの恋女房ですネ、家内は京都系でしてネ、ちょっと粋で芸者型じゃった。母親は京都で父親は彦根の井伊家の家来でしたが、家内が娘時代には、家にも金があったらしくて、踊りや三味線なんか、だいぶ稽古やりよったんですナ。父親が亡くなってから零落しましてねエ。そこへ私が現われた。ひとつのロマンスじゃネ、これはー」
 九十を越えてから、何かの座談会に、富太郎は、こんなことをしゃべったことがある。
 母一人、娘一人の家庭で、なかなか母親が許さなかったが、印刷屋の太田義二が、懸命に何度も足を運び説得した。
「こう申しちゃ何ですけれども、私は、あの牧野さんて人には感心してます。植物学をやってるんですが、何でも日本中に生えている草や木や花をですな、一つ残らず調べあげて、これに名前をつけ、御自分で画(え)に写して、説明を入れて本にしようというんですから大変です。いやもう夜となく昼となく山や野っ原を歩き廻っては草を集めて来て、それを研究さなさる、本にするというわけで、これを、みんな一人っきりでおやりになるんですからな。あれはきっと、今に偉い学者になると、私は太鼓判をおしてもよろしゅうございますよ。それにお国が四国の高知で、あの辺りでは、もう代々つくり酒屋として、殿様から苗字帯刀まで許されていたそうでー。まあ、お金もあるので、ああして好きな学問を気ままにやっていられるんでございますねな。人柄もよし、家柄もよし。何とか一つ、牧野さんの気持をかなえてやって頂きたいものでー」
 富太郎が自分の描いた植物図や原稿を本にするというので、太田の店は一年半も通い、印刷術を研究した熱意に太田は徹底的に惚れ込んでいた。
 寿衛子の母親も太田の執拗な訪問に負けて、二人の結婚を許し、二人は根岸の村岡という家の離れに新居をいとなんだ。

 時は明治二十三(1890)年。

 ちょうど、古今亭志ん生が生まれた年だ。

 富太郎28歳、寿衛子が十一歳下の17歳と言われている。

 さて、この後、二人はどんな生活を送ることになるのかは、次回以降で。


 国会図書館のサイトに「近代日本人の肖像」というライブラリーがある。
 掲載されている写真は、下記のように、無断で転載可能とのこと。
国立国会図書館「近代日本人の肖像」

電子展示会「近代日本人の肖像」に掲載している肖像画像は、著作権保護期間が満了したものを利用しています。画像の転載等のご利用にあたって、国立国会図書館への申込みは必要ありません。

 牧野富太郎のページから、池波正太郎が大泉を訪ねた晩年の頃と思しき写真を拝借。
国会図書館サイトの該当ページ
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 なるほど、池波の想像を超えた美しさ、少年のような好奇の眼が、あったのだろうと思わせる。


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by kogotokoubei | 2023-03-31 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛