小さな旅ー2022大晦日からの帰省(3)
2023年 01月 02日
昨夜から雪。
今朝7時頃の玄関。

昼頃の家の様子。

昼食の後、スマホに電話。
高校時代の同級生からだった。
彼は奥さんと十年ほど前に離婚し、横須賀で一人暮らし、のはずだった。
しかし、二年前に、脳梗塞で自分で救急車を呼んで二ヶ月入院したとのこと。
医者からは「右半身は不随だけど、脳は大丈夫」と言われ、悲しむべきか喜ぶべきか迷った、と言う。
電話の様子も、病人のようではなかったので、私は、「不幸中の幸いだろう」と答えたのだが。
しばらく、訪問介護を受けていたが、昨年夏、自分で探し手続きをし、横浜の施設に入ったらしい。
私の年賀状が施設に転送されたのだが、右手が使えず年賀状が書けないので、電話をくれたと言う。
某証券会社を定年退職し、一人暮らしになってからは、朝から酒を飲む日もあったと言う。
倒れてから初めて「健康が一番だと思う」、と淋しく語る。
電話を終え、母にその同級生のことを伝えた。
「子供は?」と聞かれたが、離婚した元妻も子供とも疎遠になっている、と言うと、可愛そうに、と一言。
そして、近所で脳梗塞になった人の話などをする。
とにかく、母のように、96歳の年女で自宅で、自分でご飯つくって食べている人は、そんなにいない。
父は数えで百歳での旅立ちだったが、母は、軽くそれを超えそうだ。
大晦日も元旦の夜も、母から、いろんな話を聞くことができた。
昨年7月に帰省した際、母が祖母を介護したことを書いた文章を預り、書き取りをしていることを紹介した。
2022年7月28日のブログ
その記事で掲載した原稿の写真。

この原稿執筆の動機となったことがある。
父は、80歳半ば、母に言われて孫のノートに「私の人生」という原稿を書き遺していた。
一昨年、何とかギリギリ死に目に間に合った時の帰省で、母が見つけたものだった。
その原稿を預った私は、校正しながら入力し、昨年の母の誕生祝に送って、喜んでもらえた。
2022年1月20日のブログ
これが、父の原稿の一頁目。

最初の日付が2006年1月9日とある。
こんなことがあったので、「母さんも『私の人生』を書けばいいのに」と言ったことに反応し、まず書き始めた介護記録だった。
祖母は、明治32(1899)年4月1日生まれ。
母のメモには、こう書かれている。
昭和59年11月6日 母、着床
昭和62年 4月2日 没
晩年二年半余りの、介護記録。
母は、長女でもなく、兄の長男も健在だった時、祖母を実家にひきとって最期まで介護できたのは、父の理解と支援のおかげだ、と語っていた。
この内容も、文章を直して写真をいくつか挟んで完成させ、PDF化し、7月末には、兄から母にプリントアウトを渡してもらっている。
さて、母の「私の人生」は、途中まで書いてはいるようだ。
ノートを見たら、6頁と半分。
これが最初の頁。

最後の7頁目は、結婚して長女が生まれたものの、商売をしていた父の親が、父の弟二人を可愛がって跡を継がせようと決めたため辛い仕打ちを受けたこと。
結果として、父の実家の倉庫のような場所で暮らすことになり、父は室蘭に仕事に行くことになった。
残された母は、長男の出産二ヶ月前の身重で、よほど長女と死のうかと思った、で終わっている。
これは、この先を続けてもらわねば、私の存在に関わる(^^)

昨夜の母。
あの祖母の介護記録も、書き忘れたことがある、と言う。
祖母の最期が近いと思った頃、兄弟姉妹に集まってもらい、寝床の祖母を囲み食事会をしたらしい。
その時の写真も見せてもらった。
その兄弟姉妹の中で、今も健在なのは、母と年が十歳下の妹だけ。
他にも、田舎の小学校時代は、1年生から6年生まで58人が同じ教室で学んだこと、などを聞かせてくれた。
一年前の四十九日と納骨で帰省した時と、昨年7月に、いくつか、そういった母の語りの動画を隠れて(^^)撮っている。
母の「私の人生」は、まだ書かれていない部分は、聞き書きでも良いかもしれない。
まずは、この6頁半の原稿と、動画を確認し、聞いた話も含め、最初の原稿を作成しようと思う。
さて、そろそろ、夕食だ。
毛ガニが、待っている(^^)
横顔がそつくりです。
精一杯甘えてきてください。
