小さな旅ー2022大晦日からの帰省(2)
2023年 01月 01日
ビールとお酒(成人)、子どもたち(高校生、中学生、小学生)はジュース、おせちとお菓子で、二時間ほど談笑。
兄の次女一家は、夜来るらしい。
元旦、朝9時の実家の写真。

昨日も暖かかったし、今日も、今のところは、良い天気だ。
しかし、明日からは寒くなりそうだ。猛吹雪、と天気予報は伝えている・・・・・・。
ちなみに、これが、昨年元旦の写真。よく見えないが、しんしんと雪が降っていた。

昨夜は、母と一緒に、懐メロを見ながらの夕食だった。

細川たかし、天童よしみなどが出ると、歌がうまいから父が好きだった、と振り返る。
さて、別な話題。
昨日の特急北斗、ようやく座ってから、「THE JR HOKKAIDO」という車内誌をめくった。

子どもの頃の正月の懐かしい遊びの特集があった。
タイトルは、闘魂、「下の句かるた」ーアスリートたちの百人一首、である。
いわゆる「板カルタ」である。

この記事の書き手は北室かず子さんという方。
北海道の百人一首のカルタは、下の句のみを板に書いたものを使う。

私は、子どもの頃、そういうものだと思っていた。
本来は(?)紙の札で、上の句から読みはじめて下の句の札を取るのだと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。

こんな感じで、並んだ板を取り合う、ほとんど格闘技(^^)
板が飛んで、もし当たると、結構痛いのだよ。
私は、得意だった。
車内誌によると、大会は一月から四月の、冬場に行われることが多いが、それはお正月だからと言うより、競技者の多くが農業や建設業関係者であり、屋外の作業ができない時期に行われたことが要因とのこと。

この写真は、2018年2月18日に定山渓温泉で開かれた第21回北海道子どもかるた大会の様子。
なぜ、下の句のみの板カルタが北海道で普及したのか。
車内誌から。
謎残る移入ルート
「下の句かるた」の由来を調べたのが全日本下の句歌留多協会相談役の宮野勝さんだ。宮野さんは道内の古い新聞記事をしらみつぶしにあたった。すると1906年(明治三十九)の小樽新聞の記事を皮切りに、1912年(明治四十五)の北海タイムスでも岩見沢梅ケ枝クラブ主催のかるた大会に道内各地から参加者が集まったとあり、開催報道が続々。明治時代から活況を呈していたことがわかった。
さらに宮野さんは発祥の地として挙げられている地域を精力的に調べた。東北北陸各県への調査はもちろん、日本海側各県の図書館に照会。その結果、福島県の会津地方で遊ばれていた木札かるたが北海道に持ち込まれ、庶民の間に広まったという見解に至った。2004年のことだ。
会津の歴史を遡れば、戊辰戦争で新政府軍と戦った東北諸藩の一つ、会津藩に行き着く。東北諸藩は戊辰戦争に敗れて石高を激減され、仙台藩を中心に北海道に新天地を求めて移住した。余市町をはじめ道内各地に移住した会津の人々には、新政府が進める北海道開拓に従事することで、朝敵の汚名をそそぎたいという血のにじむような思いもあった。また、江戸時代には会津藩は蝦夷地警護を担っている。その際に「下の句かるた」が持ち込まれたという解釈をする地域もある。移入ルートは解明されきってはおらず、ミステリアスな部分も多い。
実家のある伊達。
この地は、亘理伊達家が開拓して名前を残した場所だ。
2018年4月に帰省した際の記事で、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で放送された「北の大地に夢をひらけ! お殿さまの北海道開拓史」の内容を中心に伊達開拓の歴史をご紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2018年4月24日の該当記事
ルーツを探る旅は、あの女性の存在につながっていく。
引用を続ける。
会津藩といえば、NHKの大河ドラマ『八重の桜』(2013年)をご記憶の方も多いだろう。主人公の新島八重は、会津藩砲術師範の家娘に生まれ、戊辰戦争で会津が戦場となるや、断髪・男装し、会津若松城にろう城。自らスペンサー銃を持って奮戦した。明治になって実兄山本覚馬を頼って京都へ行き、京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)の権舎(ごんしゃ)長、教道試補となる。そして後の同志社創始者、新島襄と結婚し、同志社の運営に協力する。襄は米国の養母への手紙に「彼女の生き方がハンサムなのです」と書き送った。襄の死後、篤志看護婦となって日清戦争、日露戦争の傷病兵の看護にあたった。「幕末のジャンヌ・ダルク」、「元祖ハンサム・ウーマン」、「日本のナイチンゲール」と称される所以だ。
そんな八重の下の句かるたの関係を解き明かしたのが、同志社女子大学教授の吉海(よしかい)直人さんだ。新島邸では正月や土曜日の夜に、会津藩独特の下の句かるたの会が頻繁に行われ、八重はその名手だったという。吉海さんが発掘した資料にはこんな記述が残されている。「奥様一人を向こふに廻して五六人の書生が一団となって、戦ふのを常とした。とても奥様は上手で、いつでも五六人の者が負けたのである」。「未亡人は会津式の板カルタでは、五六人を相手に連戦連勝の功を独占せられる。昔会津落城の時の凛々しい面影を偲ぶのは、此時に限る」。
かるた会は、戊辰戦争の遺恨を溶かす作用もあったようだ。生前の新島襄へ宛てた八重の手紙に、鹿児島出身の生徒を招いたことが記されてあり、それを読んだ襄は、聖書の教訓「すべての人を愛せよ」を八重が実践できたと喜んだという。
吉海さんは、「歌の暗記によるハンディをなくすためには、上の句から読みあげず、いろかかるたのように下の句を読みあげれば、一斉に札を取りにいける」と分析する。そして会津若松市の室井商店が北海道向けに板かるたを商っていたことも突き止めた。板かるたは重箱やお盆を製作する際に出る朴(ほお)の木の端材(はざい)が材料として使われ、薄手では割れやすいので丈夫にするには厚めになったという。合理的で親しみやすい遊びなのだ。
新島八重は、鉄砲だけでなく、かるたも強かったんだ。
朴の厚い木、それじゃあ、当たると痛いはずだ(^^)
板かるたは、競技としては好きだったが、上の句を覚えないので、教養としての効果は薄かったかもしれない。
そういう意味では、『崇徳院』や『千早ふる』『和歌三神』『鶴満寺』など、落語の方が和歌、百人一首の勉強にはなるようだ。
板かるたの歴史散策は、なかなか有意義だった。
さて、運動不足でもある。
まだ、吹雪く前に、散歩がてら、先ほど飲み干した日本酒の買いだしに行こう。
西部を回っていると、先住民との争いや、入植者の苦労など、北海道の歴史と重なる部分がありますね。
