白井聡著『長期腐敗体制』より(15)
2022年 09月 28日

白井聡著『長期腐敗体制』
6月10日に角川新書から刊行された白井聡著『長期腐敗体制』から、十五回目。
著者の白井聡は、1977年生まれの思想史家、政治学者で、『永続敗戦論ー戦後日本の核心』などの著作がある。
目次を確認。
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□序章 すべての道は統治崩壊に通ず
ー私たちはどこに立っているのか?ー
□第一章 2012年体制とは何か?
ー腐敗はかくして加速したー
□第二章 2012年体制の経済対策
ーアベノミクスからアベノリベラリズムへー
□第三章 2012年体制の外交・安全保障Ⅰ
ー戦後史から位置づけるー
□第四章 2012年体制の外交・安全保障Ⅱ
ー「冷戦秩序」幻想は崩壊したー
□第五章 2012年体制と市民社会
ー命令拒絶は倫理的行為であるー
□あとがき
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巻末に説明があるが、第一章から第四章は、2021年3月から6月に朝日カルチャーセンター中之島教室で行われた連続講座「戦後史のなかの安倍・菅政権」の講義録を元にしている。
その内容を全面的に改稿し、他の章を書き下ろしたとのこと。
引き続き、第三章 2012年体制の外交・安全保障Ⅰー戦後史から位置づけるー、からご紹介。
少し時間が空いたが、前回は、対米従属による対米自立という観点からは、吉田茂も岸信介も大きく変わりがない、という著者の指摘をご紹介した。
今回は、安倍晋三の祖父、岸信介の胸中について。
岸信介の屈託
この世代は、ある種の屈託を抱え込まざるを得ません。すなわち、大日本帝国の時代にはあれだけ「鬼畜米英」と言っていたのに、戦後はアメリカに従わざるを得ず、アメリカに取り入ることさえして出世を果たしているという状況がもたらす屈託です。この屈託ある生き方の顕著だった人が、東條英機内閣の閣僚であり、戦後にA級戦犯として獄につながれたこともあった岸信介です。岸的な親米保守と吉田的な親米保守に本質的にな大差はないと述べましたが、だからこそ岸は保守傍流で佐藤栄作は保守本流でした。兄弟で分かれたように見えても所詮は兄弟、結局、同じではないか、ということです。
彼が抱えた屈託とは、かつでの敵アメリカに取り入らざるを得ないことから生じますが、従属の裏面にはこのような本音があります。「名にかへて このみいくさの正しさを 来世までも語り残さむ」。これは岸が敗戦直後に詠んだ歌ですが、全然反省していない。全然悪いことをしたとは思っていない。本当は世界の真ん中で、「あの戦は正しかった」と叫びたいわけです。しかし、それは絶対に言えない構図の中にいるので、屈託を抱えることになります。
この“反省しない”姿勢は、孫にも受け継がれたのだと思う。
あの戦争は侵略ではなくアジアの解放のためだ、とか、アメリカの策謀によって戦争せざるを得なかった、といった考え方は、安倍晋三を含め、日本会議と見解を同じくする多くの自民党議員に共通している。
引用を続ける。
岸は、あの戦争について殴り合いで負けたにすぎず、自分たちが道義的に間違っていたなどとは思っていないのですが、現実には、アメリカの反共戦略へ積極的に、自ら主体的に取り込まれました。なぜなら、東西対立が先鋭化し、アメリカの反共戦略が強まっていく流れ、すなわち逆コースの中でこそ岸は首尾よく再浮上することができたのです。仮に東西対立構造が成立しなかったならば、GHQによる民主化・脱軍国主義化はより徹底されて、岸のようにあの戦争に対して大きな責任のある人々が復権を許されることはなかったでしょう。
つまりは、岸のような人にとっては復権するためには、アメリカの冷戦戦略に積極的に加担するほかなかったのです。したがって、この人たちが活躍すればするほど、対米従属の構造は深化し、固定化されてゆくことになりました。
自分が復権するためにも、岸信介は、右翼と協力し、統一協会による国際勝共連合の設立を支援した。
それが、昨日の孫の国葬へもつながっている、ということだ。
岸は、対米従属の一環として、60年安保で強行採決を行った。
しかし、その結果、強力な反対運動を受け、アイゼンハワー大統領訪日阻止の33万人の国会包囲デモにより、岸内閣は崩壊。
岸が目指した憲法改正は棚上げとなった。
対米従属により、軍備に過度な予算を投入することなく経済成長を目指すという吉田ドクトリンは、その国是としての地位を固めていく。
岸が目指した改憲による国家の自立性の回復の代わりに、経済力に特化した発展、言い換えれば、本来は自立のための潜在力となるはずの力の発展がもたらされることになりました。こうして世界有数の経済力を持ちながら、属国的な状況から脱しようとする意欲は薄いという状況が、対米従属第一世代の政治家たちが結果としてつくり出した状況であったのでした。
岸信介は、晩年も、政界のご意見番であり、改憲へのあくなき情熱を失わず「自主憲法制定国民会議」を立ち上げた。
安倍晋三は、その政治信条や政策において、岸信介の影を追い続けたように思う。
統一協会との密接な関係も、祖父からの遺産を大事にしたかった、という思いもあっただろう。
Wikipedia「岸信介」から、文鮮明との関係について引用する。
Wikipedia「岸信介」
国際勝共連合を通じて統一教会教祖文鮮明との交遊は晩年まで続いた。
文鮮明が1968年(昭和43年)の1月に韓国に本部を持って発足した世界反共連合を同年4月に日本支部が設立した際、岸信介氏がこれに加わった。
1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。岸を名誉実行委員長とする「希望の日晩餐会」は、1976年にも開催されている。
1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った。
東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ。
あまりにも、祖父の影を追い過ぎたための、孫の悲劇だったのかもしれない。
昭和62(1987)年 8月7日、岸信介は入院先の東京医大病院で、満90歳で死去。
葬儀は内閣・自民党合同葬で行われた。
岸田総理は、孫にも、祖父の葬儀の影を追わせるべきだった。
このシリーズ、間隔は空くかもしれないが、まだ、続けたい。
