山崎雅弘著『未完の敗戦』より(16)
2022年 09月 18日
雨で日曜恒例のテニスは休み。
久しぶりにこの本の記事を書くことにした。

山崎雅弘著『未完の敗戦』
山崎雅弘の新刊『未完の敗戦』(集英社新書、2022年5月22日初版)の十六回目。
目次。
□まえがき
□第一章 狂気の再発ー東京オリンピックに暴走した日本
□第二章 「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考
□第三章 なぜ日本の組織は人間を粗末に扱うのか
□第四章 敗戦時の日本は何をどう反省していたのか
□第五章 日本が「本物の民主主義国」となるために必要なこと
□あとがき
*主要参考文献
このシリーズの六回目、七回目で、文部省(文科省の前身)が、昭和21(1946)年5月から翌年2月にかけて、四分冊とその付録という形態で発行された『新教育指針』をご紹介した。教職員向けの参考書だった。
2022年7月18日のブログ
2022年7月21日のブログ
その『新教育指針』を元に、昭和23年10月から全国の学校に配布された教科書の中があり、その名も『民主主義』。
本書に掲載されている、『民主市議』の表紙。

重複するが、昭和25年1月第三版の内容の一部を再確認。本書同様、太字にする。
政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義を本当に理解することはできない。政治上の制度としての民主主義ももとより大切であるが、それよりももっと大切なのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。
それでは、民主主義の根本精神は何であろうか。それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。
人間が人間として自分自身を尊重し、互いに他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票をするよりも、はるかに大切な民主主義の心構えである。
そう言うと、人間が自分自身を尊重するのは当たり前だ、と答える者があるかもしれない。しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじてきたことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理が引っ込む」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けてきたことであろうか。
それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。人類を大きな不幸に陥れる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度をよいことにして、その上にのさばり返るのである。だから、民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。
敗戦から五年後に書かれたこの文章は、実に重要である。
今回は、第四章 敗戦時の日本は何をどう反省していたのか、から、『新教育指針』が、性差別についてどう記述していたかを紹介したい。
◆女性差別と女性の劣等感を解消する必要性
第三分冊の第三章は「女子教育の向上」と題され、「今日の日本において、我々の強い関心を要求する問題はきわめて多い。中でも女子教育の向上と改善とは、最も大切な、しかも差し迫った問題である」との認識に基づいて、なぜ女子教育を向上させなければならないかという理由を説明しています。
これまで日本の婦人は、外で働く男子のために、内のこもって家を守り、この点で
男子に劣らぬ重い務めを果たしてきた。しかし今後の婦人は、ただ家を守るだけでなく、
社会においても男子と協力して活動しなければならない。
この点については、これまで日本の婦人の多くは低い教育しか与えられておらず、一人
前の個人として社会に立つように仕向けられていない。しかるに、いま日本が目指す民主
主義の社会は、完全な個人を土台とし、男女の差別なく国民の一人一人の自覚と責任との
上に、初めて成り立つものである。
だから新しい民主的日本をつくるためには、国民の半数を占める女子の教育を革新し、
向上させることが、きわめて大切なことである。 (pp.73-74)
ここで述べられているのは、現代の言葉で言う「ジェンダー平等}の考え方です。
戦後75年以上を経て、日本国内の女子教育は、大日本帝国時代と比べると大きく改善されたと言えますが、それでも大学入試における採点上の差別が一部の大学で発覚するなど、さまざまな性差別が社会のあちこちに根強く存在しているのが実情です。
敗戦翌年に、こうした問題がすでに「反省点」として指摘されていた事実を、我々は重く受け止める必要がありそうです。
また、この章では「女子の劣等感をなくすこと」の必要性についても、次のように記述されていました。
日本においては、これまでは性の区別は明らかに階級の差別であった。少女がいさ
さかでも優れた天分のひらめきを見せれば、どうして男に生まれなかったかと残念がられ、
女子自信は女子として生まれたことに宿命的なあきらめを持つ者さえあった。
それほど女子の劣等感は抜きがたいものとなっていた。もし女が進んで自分の意見を
述べたり、一人前の権利を要求したりすれば、「女のくせに」といって非難された。男子
と女子と共学する学級で、女子が男子よりもよい成績を得れば、生意気だといって男子が
攻撃するのである。
学童の知能の発展は、十三、十四歳までは女子の方が早く、したがって学童成績も優れ
ている場合が多い。それを女は護るべきものとして抑え、女のくせにといって悪口を言わ
れたりするために、希望を失い、劣等感を植えうけられて、伸びるべき才能をも、伸ばし
得ないのである。だから男女共学の学校においては、知らず知らずの間に行われている
男女の不当な差別的取り扱いに注意しなければならない。 (p.78)
どうでしょう。最近のメディアで議論の的となった、いくつかの女性蔑視の出来事ともそっくりな話が「(これまでの)日本においては」と過去形で語られていることに、おそらく女性の読者は特に、複雑な気持ちを抱かれたのではないかと思います。
敗戦翌年に文部省が「戦前と戦中の大日本帝国時代にあった女性差別」として指摘した特徴が、なぜ75年以上経った今もなお、日本の社会に存在しているのでしょうか。
著者が指摘する通り、今の日本においても、女性への差別は明らかに存在する。
現在の日本の女性差別、東京医科大学の入試差別問題では、27人による訴訟の地裁判決が今月あった。
東京新聞の該当記事
裁判で女性差別が認められたとはいえ、原告27人に1800万円の賠償は、あまりにも少なすぎる。
昨日の記事で紹介したように、統一教会のような反社会的な組織の差別を助長する考えを代弁する国会議員が、今も存在する。
統一教会は、必ずしも、女性だけを差別しているとは言えないかもしれない。
男女関係について、過度に厳格なのである。
夫婦は教祖によって選ばれる、霊的に結ばれた対等な関係とされる。
女性のみならず男性にも貞節を求める。
そういう意味では、男と女という水平的な関係への差別ではなく、教祖と信者という縦の関係における差別、と言えるのかもしれない。
しかし、“ジェンダーフリー”という“イデオロギー”は、サタン的な間違った考えであり、女は女らしく、男は男らしくあることが、世界平和の礎となるという考え方は、明らかに個人の人権を侵害するものだ。
昨日の「報道特集」や14日のBS TBS「報道1930」で、元信者の女性が登場した。
「絶対服従」の宗教二世への「生活指針」は、明らかに人権を侵害している。
必要なのはカルト集団の「生活指針」などではなく、反戦翌年に出され、結局反故にされた「新教育指針」だと思う。
『新教育指針』の一環として刊行された『民主主義』から、もう一度引用したい。
これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじてきたことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理が引っ込む」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けてきたことであろうか。
それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。人類を大きな不幸に陥れる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度をよいことにして、その上にのさばり返るのである。だから、民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。
安倍晋三国葬について、「黙って手を合わせて見送ってあげたらいい」とか「こんな時に議論すべきじゃない」と言う国会議員は、まさに、「無理が通れば道理が引っ込む」「長いものに巻かれろ」と言っているのだ。
敗戦を真摯に反省し、民主主義国家日本を目指そうとした正論は、その後の逆コースなどにより、その効果を失った。
まさに「未完の敗戦」なのである。
このシリーズ、まだ紹介したい部分はまだあったのだが、ご興味のある方は本書を読んでいただくこととして、お開きとしたい。
長らくのお付き合い、ありがとうございます。
さて、MLBのエンゼルスとマリナーズの試合を見ていた。
大谷が、1、2回あたりは、少し心配していたが、結果として、7回を失点なし、自分自身の打点と得点を守り、13勝。
ジャッジとのMVP争いに勝つには、規定投球回数到達と15勝は必要だろうが、大きく前進したと思う。
雨でなければ、じっくり見ることはできなかったと思う。

これは、大谷が高校1年の冬に作った、マンダラチャート。
目標を設定し、実現のために何が必要か考え書き記したものだ。
「人間性」とあるのが、素晴らしい。
十代半ばでしっかり目標を立て、それに向かって何が必要かを彼は考え実行してきた。
前期高齢者の私は、自分もそうしておけば・・・なんて、後悔するばかりである。
