ある記事へのアクセス急増から、なぜか、江戸時代の「月」の名のこと。
2022年 09月 12日
昨日の記事別アクセスレポートが、これ。

なぜか、2015年12月7日の「杉浦日向子さんが語る、蕎麦と蕎麦屋での“大人”の憩い。」という記事に、500件近いアクセスがあった。
なぜなのだろう・・・・・・。
ちなみに、この記事は、杉浦日向子さんの著作から蕎麦に関して書いた記事。
2015年12月7日のブログ
昨夜は、「十六夜(いざよい)」だった。
杉浦日向子さんの本から、月の呼び名について紹介した記事も、同じような時期だった。
2015年9月27日のブログ
『お江戸でござる』を引用していた。

杉浦日向子監修『お江戸でござる』(新潮文庫)
平成7(1995)年から平成16(2004)年まで放送された、NHK「コメディーお江戸でござる」を本にしたもので、もちろん杉浦日向子さんの監修。
七年前の旧暦8月15日に書いた記事と重複するが、あらためて紹介したい。
言葉の起源についても勉強になる部分を、引用する。
八月の月見も、十五夜だけでは終わりません。次の夜は「十六夜(いざよい)」で、満月よりも、出るのがちょっと遅くなります。「いざよう」というのは、ためらっている状態をあらわしています。
その次の夜が「立待月(たちまちづき)」。立って待っているうちに、月が出てきます。物事が早くはかどることを、「たちまち」というのは、ここから来ています。また、江戸時代の即配便を「十七夜(じゅうしちや)」と呼ぶのは「たちまち着く」というシャレからです。
今夜が、その「立待月」。
「いざよう」や、「たちまち」という言葉の起源は、「月」だったのである。
まだ月の楽しみ方が終わらないのが、江戸人の凄いところ。
十八夜が「居待月(いまちづき)」で、座敷で待っていると、月が出ます。十九日が「臥待月(ふしまちづき)」です。座敷に横になって待ちます。さらに出てくるのが遅くなると、「更待月(ふけまちづき)」といいます。夜更けにならないと出てきません。
江戸で月見が最もにぎわったのは、実は「二十六夜待ち(にじゅうろくやまち)」です。八つ(午前二時くらい)に月が出てくるので、それを、どんちゃん騒ぎをしながら待ちます。水菓子、にぎり鮨、天麩羅、二八蕎麦、団子などの屋台が出ます。月見を口実に、夜更かしができるというわけです。「月見舟」も出ます。
「二十六夜待ち」なんて、言葉自体が死語化しているねぇ。
ちなみに、この「二十六日」は、旧暦の七月二十六日。
月の出が遅いので、“待ち”なのである。
待つだけの、ご利益がある、と信じられていた。
二十六夜待ちでは、観音様、阿弥陀様、勢至菩薩の三尊の光を見ることができるといわれ、信仰に対象にもなっています。月は女性と深い関わりがあり、子宝・子育ての願もかけます。秋に収穫の時期なので、農耕の感謝の気持ちも込めます。
月見の種類の多さを知るだけでも、どれほど江戸の人々が感受性が豊かで粋か、よく分かる。
せいぜい、昨夜の「いざよい」を見て、もう空を見上げようとしない日本人の、なんと多いことか・・・・・・。
でも、チコちゃんは・・・いや、チコちゃんも知らんよね、
「立待月(たちまちづき)」や「居待月(いまちづき)」、「臥待月(ふしまちづき)」なんて。
それにしても、昨日のあの記事へのアクセス増、不思議だ。
女子校時代、古典の時間に月の呼び名は教わりました。十六夜の月については「十五夜が綺麗なのは当たり前。盛りを過ぎても美しいのが十六夜(いざよい)。あなた達も盛りを過ぎても美しくいてね」と。大学を出たばかりの可愛い女性教師でした。
昨日は桂八十八さんの独演会へ行ってきましたが、帰りに家の近所でツクツクボウシの声が。それと同時に秋の虫の声。秋の夜空を見上げるのは風流です。
お久しぶりです。
そういう先生は、今、いないでしょうね。
私は、寄席や落語会、とんとご無沙汰です。
かと言って、それほど禁断症状があるわけでもないのです。
一時、これでもか、と行きましたからね。
コロナのせいでもあります。
桟敷で助六を食べられない末広亭は、つまらないのです。
クラウドファンディングで、なんとか頑張ってくれそうなので、コロナが落着き、飲食可能になったら、ぜひ、行きたいと思います。
そうそう、繁盛亭にもね(^^)
