小金馬から金馬への奮闘ー大西信行著『落語無頼語録』より。
2022年 09月 05日
四代目金馬を、もう少し振り返りたい。
一昨年、五代目金馬の襲名披露を前に、代々の金馬について記事を書いた。
2020年9月12日のブログ
初代以降、金馬という名跡の在籍期間をあらためて確認。
初代 1893年~1903年 10年間
二代目 1906年~1926年 20年間
三代目 1926年~1864年 38年間
四代目 1967年~2020年 53年間
どうしても「お笑い三人組」の印象が強く小金馬の名の方が馴染み深いのだが、金馬で半世紀以上活躍し最長だったのだ。
先代があまりにも金馬の名を大きくしたこともあり、テレビの人気者が、その名を継ぐことへのプレッシャーは小さくなかったに違いない。
しかし、四代目金馬は、その圧力を跳ね返すべく、奮闘していた。
以前の記事と重複するが、追悼の気持ちで再度紹介したい。
三年前の5月5日の記事。
2019年5月5日のブログ
ある本から、ご紹介していた。

大西信行著『落語無頼語録』
それは、大西信行の『落語無頼語録』。
昭和48年に「話の特集」に連載され、昭和49年に芸術生活者から単行本として発行されたものだ。
なお、昭和51年には、角川文庫で再刊されている。
本書「じり脚の・・・・・・金馬」から、引用。
十年続いた『お笑い三人組』が終了して、幸か不幸かテレビの演芸番組も一時ほどのもてはやされ方はしなくなっていた。金馬も落語家金馬としての自分をつくり上げようと覚悟をしなければならなかった。「金馬いななく会」という勉強会をつくった。先代金馬の家の電話番号が1779番でイナナクと読ませていたことによるものだろう。現在もコツコツと会を続けていて、送られて来るハガキに刷られた金馬の演題の意欲がうかがわれて、聴きたいなァと思って予定は空けるのだが、なぜかその都度こちらの仕事とぶつかる羽目になって聴けないでいる。
そのために金馬の芸がどれほどのモノに成長したかをぼくは知らず、『三人組』の印象から落語は下手だという世間の噂を鵜のみにはしないまでも、滑稽ばなしにのみ力を発揮できる人だと思い込んでいた。
金馬は昭和4(1929)年3月19日生まれ、『お笑い三人組』の終了が昭和41(1966)年3月なので、終了時は、ちょうど三十七歳の時だ。
独演会で“いななき”始めて数年後のこと。
昭和四十五年、芸術祭参加の三越劇場での「精選落語会」のプログラムになにか書くようにと頼まれた。それを引きうけるについて出演者と演題をきくと、その中に三遊亭金馬の名があって、演題は『淀五郎』ということだった。
ぼくは金馬に電話をした。
芸術祭というものに対する批評は別にして、参加する以上は受賞するつもりで参加してほしい。受賞に価する得意に演(だ)しもので参加すべきではないのかという電話だった。
「いけませんかねェ、『淀五郎』じゃ・・・・・・」
と、金馬は電話の向うで当惑げに言った。
「自分の会でやってみて、評判もネ、意外とよかったんですがね」
「まあ、それならそれでいいけど・・・・・・」
と、こっちも金馬の『淀五郎』を自分で聞いていない弱味で、あいまいな言い方になる。
「今年はともかく、来年度はハッキリ受賞に狙いをつけてやるように、頼むよ」
と、わかったようなわからないような、まことに煮えきらない調子で言って、電話を切った。
ところが皮肉にもこれが芸術祭優秀賞を受賞してしまったのだから、こっちの面目はまる潰れだ。面目は潰れたが金馬が人情ばなしの『淀五郎』で賞を受けるまでのはなし家に成長しおおせたということは、ぼくにとってもまことに嬉しいことだった。ぼくはまた金馬に電話して、心からおめでとうと言った。
四十一歳で、『淀五郎』で芸術祭の優秀賞を受賞していたのだ。
そして、二年後には『品川心中-通し-』で、あらためて芸術祭に挑んだ。
その演出において、大西がプログラムに書いた助言を活かし、審査員の永井啓夫が褒める高座だったが、以前受賞しているということで、授賞は見送られた。
残念ながら金馬の『淀五郎』も『品川心中』にも縁がなかったが、聴きたかったなぁ。
テレビで馴染まれた小金馬から、金馬への奮闘について、大西はこう書いている。
『お笑い三人組』で目立ち過ぎる場に十年もいたかれが、それからの七年間、こんどは目立たない場所でコツコツと努力を積みかさねて来て、いつの間にかそういう落語家になったのだろう。そのことに敬意を表したいと思う。
この金馬の独演会のことを知り、私は桂歌丸が、すでに「笑点」が始まってテレビの人気者だった頃に始めた、三吉演芸場の独演会のことを思い浮かべた。
昭和49年の一月が第一回なので、歌丸三十八歳で始めた独演会。
ほぼ隔月での開催だったが、古典のみでほぼネタおろしの会と言ってよく、後に圓朝ものを手がける前の、噺家としての土台づくりができた独演会と言ってよいと思う。
歌丸と同様、金馬が四十を前にして独演会を始めたことが、その後の大きな財産になったようだ。
中堅と言える頃、テレビタレントではなく、落語家として成長すべく“いなない”ていた時代があったことは、私も含め、その時代の生の高座を知らない落語愛好家にとっては、覚えておいて良いことだと思う。
「金馬いななく会」は、昭和46年から、場所を神楽坂に移した「毘沙門寄席」の一つとして続けられた。
鎮護山善国寺が正式な名だが、毘沙門様として、親しまれている。文禄四年というから、1595年創建。
その毘沙門天の本堂が再建されたことを機に、始まった落語会は、毘沙門天の縁日、5日、15日、25日に開かれた。
5日は本牧亭で続けていた創作落語会をここに引っ越して開催。
15日は、若手中心の勉強会。
25日は、「金馬いななく会」をネタ下ろし中心に開いた。
お寺での落語会開催における消防への届け出などの苦労を、金馬は著書で書いていた。
神楽坂での落語会は、今は、古今亭菊之丞が「神楽坂落語まつり」として継承している。
「神楽坂伝統芸能2022」のサイト
今年で13回目とのこと。
菊之丞は今年50歳だから、四十を前に始めたということか。
四代目金馬の“いななき”は、脈々と伝承されているようだ。
