山崎雅弘著『未完の敗戦』より(13)
2022年 08月 22日

山崎雅弘著『未完の敗戦』
山崎雅弘の新刊『未完の敗戦』(集英社新書、2022年5月22日初版)の十三回目。
目次。
□まえがき
□第一章 狂気の再発ー東京オリンピックに暴走した日本
□第二章 「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考
□第三章 なぜ日本の組織は人間を粗末に扱うのか
□第四章 敗戦時の日本は何をどう反省していたのか
□第五章 日本が「本物の民主主義国」となるために必要なこと
□あとがき
*主要参考文献
引き続き、第二章 「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考、から。
前回は、昭和7年の「第一次上海事変」における三人の兵士の死を、「爆弾三勇士」として美化礼賛することから、次第に特攻という暴挙を肯定する風潮が出来上がっていったことをご紹介した。
そして、あの時代の教育のあり方も、無謀な戦法を容認させることにつながっていた。
大日本帝国時代の教育内容を現代の視点で振り返る時、いくつかの基準から光を当てて評価することが可能ですが、その大きな特徴は、批判的思考の著しい欠落でした。
批判的思考は、英語では「クリティカル・シンキング」と呼ばれますが、単に物事のあら探しをするような考え方ではなく、物事を道理立てて考えることや、問題の解決における前提条件を疑うこと、状況を客観的に俯瞰して分析すること、自らが気づかないうちに陥っている思いこみを自覚することなどを指します。
組織や集団の上位者が言うことを鵜呑みにせず、内容に疑いを差し挟んだり、もっと優れていると思うアイデアを提言することも、批判的思考の一形態です。
これとは逆に、組織や集団の上位者が言うことを鵜呑みにし、内容に疑いを差し挟んだりせず、ただ上位者の教えに従って行動するような態度は、批判的思考が欠落した状態であると言えます。
大日本帝国時代の日本の教育、とりわけ昭和期の教育は、後者の典型でした。
その象徴が、有名な「教育勅語」です。
「教育に関する勅語」とも言われる教育勅語は、1890年10月30日に、明治天皇が首相(山県有朋)と文部相(芳川顕正)に与えた勅語でした。勅語とは、天皇が臣民に下賜するという形式で発せられる意思表示で、大日本帝国時代には絶対的な権威を持っていました。
現在の日本でも、教育勅語には「いいことも書いてある」から学校で教材として使っても問題はない、と主張する人がいます。けれども、教育勅語の大きな特徴は、それを読む子どもが批判的思考で内容を考えることを一切許さないことでした。
宗教の聖典と同様、そこに書かれていることは「絶対的に正しい」ものと見なされ、それを学ぶ子どもに許されるのは、有名な「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」などの文言を暗記し、暗唱することだけでした。
実際には、教育勅語を書いたのは明治天皇ではなく、フランスへの留学経験を持つ内閣法制局長官の井上毅(こわし)と、明治天皇の側近である儒学者の元田永孚(ながざね)でした。しかし、当時の国民は、この事実を知らされず、教育勅語の内容に批判的な視点を差し挟むことは、天皇に対する不敬として厳しい処罰の対象となりました。
このような厳しい権威主義形式の教育を受けたことも、若い軍人が特攻という事実上の「自殺攻撃」を拒絶できなかった理由の一つだったと考えられます。批判的思考を育む教育を受けたことがなければ、組織や集団が下す決定に疑問を差し挟むという発想すら、頭の中に持ち得ないからです。
途中の「宗教の聖典」という言葉が、統一教会問題を連想させる。
8月4日のBS TBS「報道1930」を振り返る記事を翌日書いた。
2022年8月5日のブログ
テレビの画像をスマホで撮ったものも掲載したが、その中の一枚がこれだ。
文鮮明の発言録「天聖経」を、紀藤弁護士が解説していた。

文鮮明は、同性愛は罪であり、その罪により宇宙が破綻する、とまで言う。
まさに、カルトなのである。
あの記事では紹介しなかったが、なぜ、日本が韓国に貢ぐ必要があるのか、について。

果たして、こういう創始者の発言を信じる人々の集団が、「信教の自由」の名で擁護されてよいのかどうか。
つい、話がそれてしまったかもしれないが、大日本帝国時代の特攻を容認する風潮と、統一教会問題には、共通することが多い。
その一つが、どちらも批判的思考が欠落している、ということだ。
上の者が決めたことへの、無批判な追従が、悲惨な結果を招いている。
本書に戻る。
実際に特攻でどれほどの戦果が出ているかを科学的に調査・検証することもせず(初期の特攻では、護衛と戦果確認の任務を帯びた戦闘機が随行していましたが、途中からパイロットと戦闘機の不足により廃止されたため、敵艦に命中したか途中で撃墜されたかもわからない特攻隊員が少なくない)、16歳や17歳の若者までも死地に向かわせ続けた、当時の陸軍と海軍の指導部の責任は、きわめて重いものでした。
目的を達成できるか否かという「可能性」が、その目的を達成するまでの「努力」にすり替わり、目的を達成する「努力の尊さ」が「その努力において自分を犠牲にすることの尊さ」にすり替わる。戦後の日本、現在の日本においても、同様のパターンは、あちこちで繰り返されているように見えます。
まさに、現在の日本においても、著者が指摘する非科学的な取り組みや、手段と目的のすり替えが行われている。
コロナ対策でも、そうだ。
岸田内閣は、国民に、感染が充満している敵地への“特攻”を命じているのではないのか。
集団免疫が出来るまでは、ある程度の犠牲も厭わない、というのが、国の“指導部”の本音ではないのか。
医療崩壊を放置している状態は、大日本帝国の指導部と実によく似てはいないか。
統一教会問題でも然り。
霊感商法に関する河野太郎デジタル相や、葉梨法務相の取り組みも、目的達成への行動ではなく、「努力」、いわゆる「やってる感」だけのポーズに見えて仕方がない。
本当に、問題を解決しようとするなら、税の優遇措置を受けている宗教法人格を剥奪することから始めるべできはないのか。霊感商法の犠牲者を救うためには、アダムの韓国がイブの日本から巻き上げた蓄財を取り戻す必要があると思う。
先日のTBS「報道特集」は、宗教法人格の剥奪は、「信教の自由」に反することにならない、という専門家の指摘があった。
今の日本にも、特攻を容認してきた、批判的思考の欠如が、さまざまな問題を起こしている。
次回は、第三章 なぜ日本の組織は人間を粗末に扱うのか、からご紹介する予定。
