山崎雅弘著『未完の敗戦』より(11)
2022年 08月 14日

今朝の朝日「天声人語」は、体当たり兵器(特攻兵器)の「震洋」がテーマだった。
朝日新聞の該当コラム
少し引用する。
77年前の太平洋戦争末期、日本軍は本気で本土決戦に備えていた。その一端を見せてくれる遺跡が千葉県館山市の海水浴場の近くにある。特攻艇「震洋(しんよう)」が発進するはずだったスロープである。遠浅の海に突き出たコンクリートの台は、教えられなければ見過ごしてしまいそうだ▼震洋は木製のモーターボートに爆薬のを載せた「兵器」で、敵艦に向かい、乗組員ごと自爆する。
このシリーズの前回の記事で紹介したが、Wikipedia「震洋」から写真をもう一度確認。
Wikipedia「震洋」

「天声人語」は、次のように締めくくられている。
出撃が死を意味する特攻は、異常な戦闘行為である。しかしそれは、もしかしたら戦争の本質をグロテスクに示しているだけかもしれない。強制的に国民の命を差し出させるという戦争の本質を。
では、そういった戦争の本質による大きな犠牲を、今の日本は生かしているのだろうか。

山崎雅弘著『未完の敗戦』
山崎雅弘の新刊『未完の敗戦』(集英社新書、2022年5月22日初版)の十一回目。
目次。
□まえがき
□第一章 狂気の再発ー東京オリンピックに暴走した日本
□第二章 「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考
□第三章 なぜ日本の組織は人間を粗末に扱うのか
□第四章 敗戦時の日本は何をどう反省していたのか
□第五章 日本が「本物の民主主義国」となるために必要なこと
□あとがき
*主要参考文献
引き続き、第二章 「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考、から。
前回は、特攻のような「体当たり兵器」を、組織的かつ継続的に戦法として行った国は他にはなかった、という言葉までご紹介した。
では、三国同盟の仲間、ドイツではどうだったのか。
大日本帝国と同盟国だったドイツだけは、日本軍の特攻にヒントを得て、体当たり戦法を目的とする戦闘機の集団を編成し、戦争末期の1945年4月7日に、ドイツ上空に飛来するアメリカ軍の爆撃機編隊に向かわせました(エルベ特別攻撃隊)。しかし、軍事的合理性の面で効率が良くないと判断され、この一度しか実施されませんでした。
この時、襲来したアメリカ軍の爆撃機は約1300機であったのに対し、攻撃したドイツ空軍の戦闘機は100機ほどで、体当たりによって撃墜された米軍の爆撃機は、米軍側の記録によれば、わずか8機でした(このほか5機が損害を被った後に墜落)。そして、ドイツ空軍の上層部は戦闘機が米軍爆撃機に体当たりする直前に、パイロットが操縦席から脱出することを認めていました。
つまり、ドイツ軍は日本軍と異なり、体当たり戦法でパイロットが「死ぬこと」に特別な意味づけを行っておらず、また戦意高揚のプロパガンダを好むヒトラーやゲッペルスなどのナチス・ドイツの高官も、こうした体当たり戦法を国民向けの「自己犠牲を称賛する宣伝」に使おうとはしませんでした。
ナチス・ドイツでも、死ぬことを前提とした特攻を展開することは、なかった。
日本にしかなかった、体当たり戦法、そして、玉砕を美徳と称賛する姿勢は、果たして、いつから始まったのか。
著者は、その人命軽視の戦法は、大日本帝国時代末期、昭和18年からの三年間に集中しており、明治、大正の日本軍には見られなかったと指摘する。
たとえば、日露戦争の「旅順口閉塞作戦」について、こう説明している。
日本海軍の主力である連合艦隊は、兵士の人命を重視する姿勢を最後まで貫き、結果として三度の閉塞作戦はすべて失敗に終わりました。後に「軍神」として神格化される広瀬武夫中佐は、この作戦中に戦死した一人ですが、彼が命を落とした理由は、所在が不明となった杉野という部下を捜すことに時間を費やし、脱出が遅れたためでした。
ちなみに日露戦争による日本人の死者は、約8万人。
大正期のロシア内戦干渉によるシベリア出兵でも、日本軍は兵士の命を粗末にするようなことや、戦死を美化するような風潮はなかった、と著者は指摘する。
それどころか、大正期の日本では人々の権利意識も高まり、軍人も自分の命を大事にする権利があるという考え方が、軍隊にも広まっていました。
そのため、戦場で「部下の命を不必要に危険に晒している」と兵士から見なされた指揮官は、徒党を組んだ兵士から暴力的な「仕返し」をされたり、戦闘中に後ろから撃たれたりすることもありました。
明治期や大正期の日本軍は、戦場がすべて外国だったこともあり、全面的な敗戦という危機には直面しませんでしたが、もし当時の指導部が前線の兵士に特攻のような体当たり攻撃を命じたとしても、従わない兵士が続出していた可能性が高いと思われます。
では、日本軍はいつから、兵士の命を軽んじるようになったのか?
兵士が指揮官の命令に抵抗するということは、軍隊の規律としては問題なのだろうが、人権という視点から考えると、上官の命令に従い死んでいくことと、そんな命令に抵抗することのどちらが正しいのかは、なかなか難しい問題である。
父は大正11年生まれだった。
大正は、15年しかない時代なのだが、大正デモクラシーという言葉だけ、残っているような気がする。
そして、その短い明治と昭和のバッファとも言える時代のことは、もっと振り返ってもいいような気がする。
明治、大正期にはなかった特攻という作戦や、殉死を美化する風潮は、いったいいつから始まったのかについては、次回。
あの戦争での兵士と民間人を合わせた死者は、300万人を超える。
今日の「天声人語」の中で、映画「日本のいちばん長い日」のことに触れており、ある幕僚の次の言葉を紹介している。
「あと二千万の特攻を出せば、日本は必ず勝てます。男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば」
この言葉は、特攻の生みの親と言われる大西瀧治郎中将・軍令部次長が、東郷外相に対して発している。
大西は、山本五十六の極秘指令により、真珠湾攻撃の具体的な作戦を検討した、優秀な人材とも言われている。
戦争は、人間から理性を奪い、狂気に走らせる。
ウクライナの大統領の顔つきが、ロシア侵攻直後から明らかに変わってきたと思うのは、私だけではないと思う。
