国谷裕子著『キャスターという仕事』より(3)
2022年 05月 22日

国谷裕子著『キャスターという仕事』(岩波新書)
国谷裕子(くにや ひろこ)著『キャスターという仕事』から三回目。
本書は、2017年1月に岩波新書から発行された。
目次。
□第1章 ハルバースタムの警告
□第2章 自分へのリベンジ
□第3章 クローズアップ現代
□第4章 キャスターの役割
□第5章 試写という役割
□第6章 前説とゲストトーク
□第7章 インタビューの仕事
□第8章 問い続けること
□第9章 失った信頼
□第10章 変わりゆく時代のなかで
□終 章 クローズアップ現代の23年を終えて
引き続き、「第2章 自分へのリベンジ」からご紹介。
少し復習。
アメリカの大学を卒業し、帰国して外資系企業に勤めたものの一年足らずで辞めていた国谷さん。
そんな時期、香港時代に近所に住んでいたNHKの元特派員からお父さんあてに電話があった。
NHKの夜7時のニュースの二カ国語放送が始まるので、ぜひ、英語が堪能なお嬢さんに、挑戦して欲しい、という誘い。
明確な将来像も見いだせなかった国谷さんは、その誘いに飛び乗った。
試験に合格し、しばらくは、出来上がったニュースの日本語原稿を英語放送の部屋で待つ翻訳者に急いで運ぶなどの使い走りを含め、仕事が始まった。
日本語がうまく話せないことへのコンプレックスを抱いていた国谷さんは、自分を磨くため同時通訳の専門学校に入学。
その学校で技術を磨き、同じような境遇の仲間を当て、次第に自信を取り戻していった。
そして、アナウンサーのみならず、翻訳の仕事にも挑戦していった。
その後のこと。
ジャーナリズムへの入り口
何がきっかけだったか覚えていないが、外国人記者が日本を訪れ取材するときにサポートを行っていた千代田区内幸町にあるフォーリン・プレスセンターに登録をし、仕事をもらうようになった。日本に支局を置く海外の大手新聞社や雑誌社であっても、特集を組む場合は、取材に同行する通訳やコーディネーターを必要とした。ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、デア・シュピーゲル、ナショナルジオグラフィックなどの記者やカメラマンと共に現場に行き、思にインタビューの通訳をした。
テーマは日本の環境問題、産業政策、ファッション、伝統文化と多彩だった。記者がどんなことに関心をもって取材しようとしているのか、問題をどのように捉えているのか、彼らがインタビューに臨む前に話を聞いた。そして一つの取材を終えると関連するインタビューをしたいので良い人を見つけてくれないかと頼まれることも多くなり、私は次第に取材のためのリサーチも経験することになった。
大きな楽しみは、何といっても取材後しばらくたってから手にする記事だ。光の具合を気にしながら何時間もかけて撮影した表情、ねばって聞いたインタビュー。長い取材を通してジャーナリストたちが見出した事実を、どんな言葉や表情で伝えるのか、取材のプロセスに立ち会っただけに興味深かった。
このころ私は、NHKに依頼され、英語で行われたインタビューを文字に起こす仕事をしたり、<NHK特集>を制作するディレクターに頼まれて、海外取材の対象になりそうな相手から事前に電話で情報取材する仕事も引き受けていた。インタビュー起こしのテープに耳を傾けながら、この質問にどう答えるのだろうか、答えを受けてどんな質問をするのだろうか、声を聴きながらどんな人物なのだろうか、などど想像を膨らませていた。
振り返ってみると、このころの経験によって私は、ジャーナリズムの面白さと難しさ、そしてインタビューの面白さを知ったように思う。また、インタビューがいかに大事であるか、準備の仕方、聞き方によって得られる答えが大きく変わってくることに気づかされた。世界を代表する新聞や雑誌で活躍する記者たちの働き方を目の当たりにし、自分が媒介となってつないだ情報によって発信されていく記事を読み、ジャーナリズムの仕事の醍醐味を味わうことが出来た。こうしてテレビ、新聞、雑誌といったメディアの仕事に関わり、様々な体験を通して、私はジャーナリズムの世界へ関心を深めていった。
最初は英語力を生かして、英語ニュースのアナウンサーとしてキャリアが始まったが、その後の経験は、アナウンサーではなく、ジャーナリストとして歩むための布石、と言えるだろう。
しかし、そんな経験を続けていて5年ほどたった1985年の暮れに、国谷さんは結婚され、東京の仕事に区切りをつけて、旦那さんが住んでいたワシントンに向かった。
その後、ニューヨークに引っ越してから、また報道の仕事に関わることになる。
NHKアメリカ総局のリサーチャーになったのだ。
そして、そこから、あらたな仕事への縁が生れた。
ニュース素材のためにインタビュー相手を探したり、そのインタビューに同行したり、<NHK特集>のリサーチを本格的に行うようになった。1986年、バブル経済が勢いを増す日本を象徴するかのような番組、「世界の中の日本・日本のカネは世界で何をしているのか」のリサーチ依頼が来たことが記憶に残る。
リサーチャーとしての仕事に充実感を覚えるようになってきた頃、突然、NHKのチーフプロデューサーから「テレビに出てみませんか?」と言われた。私は「トレーニングも受けていませんし、日本語も上手ではありませんので出られません」と断ったが、「大丈夫、大丈夫! 出来ます」と何度も言われた。「どうして大丈夫と言えるのですか?」と尋ねると、なんと「誰も観ていないから」だと言う。「誰も観ていないテレビとは何ですか?」。あまりに奇妙なことを言うので、私はそう聞き返した。すると、「新しく試験放送が始まる衛星放送を受信するには専用アンテナが必要だが、まだ持っている人はほとんどいない。それに国谷さんが登場するのは「日本時間の夜中の3時と5時だから、誰も観ていないよ」と言うのだ。「それならば、ものは試しだ」と考えて、私はチャレンジすることにした。
スタートした衛星放送の最大の売りは<ワールドニュース>だった。世界各地から24時間、ニュースを伝えるその番組では、ニューヨークのほかロンドン、パリ、マニラなどから、順次、生の情報をつないでいくこととなった。試験放送が始まったのは1987年の7月、アメリカ総局の記者がテレビを改良した手作りのプロンプターを器用に作ってくれた。総局の中に作られた小さなスタジオから、生放送で毎日ニュースを出すための急ごしらえの態勢づくりは、とても大変だったと記憶している。
私が担当した番組は、挨拶から始まってニューヨークの天気を伝え、ニューヨークタイムズのトップ記事や日本人にとって興味のありそうな話題を2、3分紹介した後、CNNのヘッドラインニュースを流した。ときには、その後にインタビューコーナーが続くこともあった。ゲストには、ブロードウェイ情報に詳しい方や、ウォールストリートで働く日本の金融関係者、アメリカをテーマに小説を書いた石川好さんなどが登場した。だが、たいていはニューヨーク市場の為替相場、証券取引所での株式市場の値動きなど、マーケット情報を伝えて放送を終えていた。
この章の扉に、ニューヨーク時代の写真が掲載されていたので拝借。

まだ、三十歳前後の時だろう。
自分で簡単に櫛を入れるだけでの出演だったとのこと。
「さ、し、す、せ、そ」が「しゃ、しぃ、しゅ、しぇ、しょ」と聞こえていないか心配で、放送後はVTRでたびたびチェックしていたらしい。
そして、この衛星放送開始から三ヵ月後10月19日、ブラックマンデーが訪れ、一日でダウ30種平均の終値が前週末に比べ508ドル、22.6%と史上最大規模の暴落。
その日は下がり続ける株価を日本に向けて伝え続けたことを思い出す。
確かに出演交渉を受けたときの説得文句のとおり、誰も観ていないのか、視聴者からの反応はまったくと言っていいほど私に伝わってこなかった。ところがただ一人、ある日突然スタジオに現れたのが、作家で評論家の立花隆さん。「いつも観てますよ」と声をかけてくれたのだ。夜通し書いていた原稿を仕上げた深夜の3時や5時に、新し物好きの立花さんは、衛星放送を観ることが多かったという。私にとって最初の視聴者となった。
立花隆、ニューヨークのスタジオに突然現れるというのが、恐るべし。
さて、この後、国谷さんは、大きな岐路に立たされる。
なんと、日本の新番組に抜擢されたのである。
大学か、それとも仕事か
大きな転機が一年足らずで訪れた。ニューヨーク発の<ワールドニュース>を担当して、観ている人がわずかな試験放送だった衛星放送から、私はいきなり毎晩何百万もの人が観ている総合テレビへ抜擢されたのだ。
1988年の4月に始まった<ニューストゥデー>は、14年続いた<ニュースセンター9時>を刷新し、80分間にした大型ニュース番組。メインキャスターの平野次郎さんに加え、政治、経済、社会、国際、スポーツ、気象、シティ情報をそれぞれ担当するキャスターを合わせると総勢8人という、見た目にも派手なニュース番組で、私は国際ニュースの担当になった。特派員の経験はおろか、第一線で取材した経験もない私が、世界中でいつ何時、大事件が起きるかもしれない国際ニュースを担当することは、少し冷静に考えれば、とても無謀なことと判断出来たはずだ。ところが、私は深く考えずに新しい仕事を引き受けてしまっていた。
この決断の直前、もっと本格的にジャーナリズムを学ぼうと願書を出していたコロンビア大学のジャーナリズム大学院への入学許可が届いていた。大学院に行くのか、日本に帰国してテレビの仕事を選ぶのか。迷った私は大学へ相談に行った。入学担当の学部長は、「学校は待てます。しかし、仕事がめぐってくるチャンスはそう多くありませんよ」とアドバイスしてくれた。 "School can wait." 私の迷いを吹き飛ばしてくれる言葉だった。
衛星放送に出ることをあれだけ躊躇した私が、わずか一年足らずのキャスター経験にもかかわらず、地上波でも通用するなどと、なぜ思ったのだろうか。キャスターという仕事を甘く考えていたとしか思えない。
大きな転機だったと思う。
結果として、大学で学ぶことを先延ばし、ジャーナリズムの実務の道を選んだ国谷さん。
日本に帰国し、新たなニュース番組のキャスターとして味わう苦い体験については、次回。
バイデン大統領が来日する。
岸田総理が、軍事費拡大を約束するようだ。
食事の「おもてなし」も用意するらしいが、アメリカの軍産複合体への、血税を投入する「おもてなし」だけで、十分だろう。
軍靴の響きが聞こえてくる。
