国谷裕子著『キャスターという仕事』より(2)
2022年 05月 19日

国谷裕子著『キャスターという仕事』(岩波新書)
国谷裕子(くにや ひろこ)著『キャスターという仕事』から二回目。
本書は、2017年1月に岩波新書から発行された。
上のリンク先の岩波書店の本書のページから、「読者のみなさんへ」と題した著者の言葉を紹介する。
番組を離れて10か月が経ち,〈クローズアップ現代〉に自分なりの区切りをつけたいと思いました.私には,次に向かって進むために,番組とともに過ごしてきた時間を整理することが必要だったのです.番組との出会いと別れ.キャスターの仕事とは何かと悩んだ日々.記憶に残るインタビューの数々.そしてテレビの報道番組が抱える難しさと危うさ.偶然のようにしてキャスターになり,大きな挫折も経験し,そのことへのリベンジとしてキャスターをやめられなくなった私.番組を制作する人々の熱い思いに突き動かされながら,様々な問いを出し続けてきました.この本は,言葉の力を信じて,キャスターという仕事とは何かを模索してきた旅の記録です.
目次。
□第1章 ハルバースタムの警告
□第2章 自分へのリベンジ
□第3章 クローズアップ現代
□第4章 キャスターの役割
□第5章 試写という役割
□第6章 前説とゲストトーク
□第7章 インタビューの仕事
□第8章 問い続けること
□第9章 失った信頼
□第10章 変わりゆく時代のなかで
□終 章 クローズアップ現代の23年を終えて
国谷裕子というキャスターが生れる経緯を振り返るため、今回は「第2章 自分へのリベンジ」からご紹介。
英語放送からのスタート
NHKとの出会いは父にかかってきた一本の電話がきっかけだった。
「お宅には英語が堪能なお嬢さんがいらしゃいましたよね?」
電話の主は家族で香港に住んでいたころ、近所にいらしたNHKの元特派員の方からだった。1981年、夜7時のニュースを二カ国語放送にすることに向けて、その業務の責任者になっていた元特派員の方は、英語でニュースを読むアナウンサーを探していて、電話をかけてきたのだった。
私はアメリカの大学卒業後、帰国して外資系企業に勤めてみたものの、一年足らずでそこを辞めてしまい、明確な将来像も見いだせず過していた。私はすぐに誘いのあった英語ニュースの試験を受けて合格、英語放送アナウンサーとして雇われることになった。NHKではそれまでにも午後5時の5分間ニュースが二カ国語で放送されていたり、ラジオでの英語ニュースはあったが、いよいよ夜のメインニュースの二カ国語放送を始めるというので、どのような体制で臨めばよいのか様々な検討が行われていた。
最初の仕事は、7時のニュースに使用される日本語原稿を一刻も早く手に入れて、翻訳を担当する人たちに運び、時間までに英語原稿を完成させること。当時、放送センターの5階にあったタバコの匂いが充満する整理部の部屋と、3階にあった英語放送の作業部屋の間を何度も行き来することになった。ニュースの時間が迫るなか、原稿に手を入れたり、リードを書きかえている緊張した雰囲気のなかで、仕事ししている職員の後ろにおずおずと立ち、少しでも早く、一枚でも多くの原稿を持って走って英語放送の作業部屋に届けるのが仕事だった。
この初仕事の部分を読んで、私は学生時代の新聞社でのアルバイトを思い出した。
大学入学時には、新聞記者志望で、サークル(体育会)の先輩が勤める新聞社で、運動部のオフシーズンに一度だけアルバイトをさせてもらった。
仕事は、雑用と言って良いものだったが、原稿を別の部署に届けることもあった。
なんとも言えない、緊張感の漂う職場だった。
たしかに、タバコの煙の充満する環境での仕事だったなぁ。
結局、新聞社が次第にアルバイトを使わなくなったこともあって、その後のオフのバイトは、賄い付きの旅館になった。
その、いろは旅館は、今はない。
話を戻す。
英語放送が始まって間もない頃、国谷さんは、整理部で待機していても、なかなか原稿をもらえなかったり、見て見ぬふりをされるなどの、いわば、新人の通過儀礼的な面を含む経験をしていた。
帰国子女で小学校の数年を除いて海外の大学やインターナショナルスクールで教育を受けてきた私は、日本のことをきちんと理解できていないことがコンプレックスになっていた。採用面接で英語ニュースに関わりたい動機を聞かれたときも、「日本のことを知りたいから」と答えた。長い海外経験のおかげで英語の発音が良く、原稿をきちんと読めたことで採用されたのだが、トップニュースや難しいニュースはベテラン職員の男性アナウンサーが担当し、私たち女性アナウンサーが読むことはなかった。またニュースを読むだけでなく原稿の翻訳も行ったが、私たいちに回ってくるのは、お祭りの話題、特産物の出荷が始まったことなどの、いわゆるトピックスや、早くから原稿が出ている暇ネタだった。
英語放送の仕事は週2、3回、午後3時から8時までの4時間半。担当の日は朝から日本語の新聞と英語の新聞を丹念に読み、その日の放送に出てきそうなニュースを理解できるようにし、英語での言い回しを勉強した。英語放送を聴く人々は日本に住んでいる外国人や日本を訪れている海外の人々を想定しているため、出来るだけわかりやすく伝えなくではならない。日本の視聴者にとって馴染み深いことや当たり前になっている事柄について、日本語のニュース原稿では背景を説明しないが、英語ニュースでは同じ時間内に外国人にわかるように伝えなければならなかった。
(中 略)
私もお祭りの原稿を翻訳しているとき、日本のどこにある町か、お祭りの由来などもつい詳しく説明をつけたくなったが、緊急のニュースが入ってきたり、トップニュースの時間が延びたりすると、どんどん削られた。ニュース原稿を読んでいても、果たして外国の人に理解できるのだろうかと思うことも少なくなかった。
この苦労は、分かるなぁ。
仕事で海外の人々と会話する機会が多かった頃、食事の時などに、日本のこと、日本文化のことなどを説明することがある。そういう時、周辺のことも補足しないと伝わらない、という苦労があった。
そして、海外に行くと、自分が日本の歴史や文化をよく知らないことを痛感したものだ。
国谷さんは、この後、一歩先を目指す行動に出た。
「伝えること」の出発点
ニュースを英語で読むことに少し慣れてくると、本格的にニュースの翻訳に取り組みたくなった。同時通訳での対応が必要なこともわかってきたので、同時通訳者を養成する専門学校にも通い始めた。クラス分けのテストは英語で行われるため、私はいきなり上級者に分類されたが、実際に授業が始まると、日本語が不自由な私は劣等性であることを思い知らされた。意味はわかるのだが、日本語が出てこない。一方、英語はそれほど流暢ではないものの素晴らしい訳し方をする生徒が何人もいた。英語のスピーカーの話し方どおりのニュアンスや格調の高さまで日本語で再現されていく様子を、私はただ聞き入っていた。
耳で聞いたことを正確に言葉にする訓練、リピーティングの授業があった。その訓練を繰り返していくうちに、私は苦手だた感じていた日本語が口の中で定着していくように感じ始めた。読んだり聞いたりしていても、自分で使うとなると敷居の高い表現がある。しかし、自分で聞きながらその言葉を実際に使うことで、遠かったボキャブラリーが自分の中で使えるものに変っていく。これは不思議な体験だった。使い慣れていない難しい日本語をむしろ使ってみたくなる。そんな衝動も経験した。リピーティングに使用されたスピーチの質は高く、こんなふうに話してみたいと思わせる素材、味のある表現、間の取り方、耳でひたすら聞いて再現する訓練は、今思えば「伝えること」の入り口に立ったばかりの私にとって、本格的に言葉による伝達に興味を抱く出発点になった。
同時通訳者を養成する専門学校に通って良かったことが、もう一つある。みんなの前で何度も自分の語学力をさらけ出す訓練は、私に度胸というものをつかさせてくれたのだ。帰国子女は映画で話すときと日本語で話すときとでは、人が変わったようになると言われることが多い。英語では堂々と相手に対して対等に振る舞うことが出来ても、日本語になると極端に丁寧になったり自意識が過剰になったりする。言葉に対する苦手意識が態度にまで影響を及ぼすのだ。「出来ない」「へた」な生徒、しかしそこで自分と同じように、英語のほうが得意で体当たりでクラスに通う仲間とも出会い、彼女たちの伸び伸びと振舞う姿を見て、私は肩の力を抜けるようになっていった。
この同時通訳の専門学校での経験は、その技術を磨くことにとどまらず、国谷さんのコンプレックス解消と、同じような境遇にある仲間を得る重要な転機になったのだろう。
その後、国谷さんは、NHKの英語放送でのライターの仕事にも挑戦した。
何が起きたのか結論の部分が日本語では文章の一番最後に書かれる。経緯の長い事件などの原稿は、そのまま訳すと外国人にはとてもわかりにくくなってしまうことが多かった。伝えようとしていることのどこに一番ニュースバリューがあるのか。どんなことが最も外国人にとってわかりにくいことなのか。そうしたことを考えながら、原稿を訳す日が続いた。こうした経験が、のちのキャスターの仕事に役立つことになる。
結論が最後、という日本語は、海外の人とのビジネスの会話においても、相手をいらつかせる。
そして、相手と意見が違うことについて、日本人はなかなかそれを言い出すことができないが、彼らは違う。
I don't think so.
は、いわば日常的に使われる言葉で、それも、相手の言葉を受けて最初に発せられることが多い。
決して、喧嘩を売っているんじゃない。
欧米では、違う、ということは、決してネガティブな印象を、持っていない。
しかし、日本には、「間違い」「場違い」「食い違い」「すれ違い」など、違うという言葉が良い意味で使われない慣用句が多い。
日本人の文化に深く根差していると思うので、簡単には変れないが、違うことについては、もっと自信を持つことは必要だろう。そして、相手が違うことについては、寛容になることが必要だ。
いわゆる、ダイバーシティ、多様性の問題。
さて、国谷さんは、通訳の仕事にも興味があったが、聞きながら訳す同時通訳は苦手で、逐語通訳で意味を確認し理解しながらなら通訳はできると思っていた。
そこで、外国人記者が日本を訪れて取材する際にサポートをするフォーリン・プレスセターに登録し、仕事をすることになった。
次回は、海外主要メディアの取材に通訳として立ち会う経験の話など、引き続き、キャスター誕生前夜についてご紹介予定。
前の記事で、アメリカABCの「ナイトライン」のアンカー、テッド・コペルが、アパルトヘイト解除前の南アフリカで、黒人のアバルトヘイト撤廃運動指導者ツツ主教と、政府側のボタ外相の対話を仲介したことを紹介した。
ツツ元大主教の代表的な言葉も紹介したが、朝日新聞の「Globe+」のサイトに、「やる気が出る名言で学ぶビジネス英語」というシリーズがあり、ツツ元大主教の別の言葉が紹介されていたので、引用したい。
「The Asahi Shimbun Globe+」サイトの該当ページ
Hope is being able to see that there is light despite all of the darkness.
(希望とは、暗黒の状態でも光があると見ることができる力だ)
ウクライナ、アフガニスタン、ミャンマーなどの人々にも、暗黒の中でも光が見えていることを祈るばかり。
