永井路子著『源頼朝の世界』より(21)
2022年 03月 23日
ウクライナの人々のことが、気にかかりながらも、昔のことについて書くことにする。

永井路子著『源頼朝の世界』(朝日文庫)
1982年に中央公論社から刊行され、昨年末朝日文庫から再刊された永井路子の『源頼朝の世界』から二十一回目。
目次を確認。
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頼朝とその周辺の人びと
源 頼朝
北条政子
比企尼と阿波局
頼家と実朝
北条義時
逞しき東国武者
三浦一族
伊豆の軍団
武蔵七党
西国の権謀家たち
後白河法皇
源 通親
後鳥羽院と藤原定家
あとがき
源氏三代の乳母関係図
東国武士の分布図
参考史料・参考文献
解説(中公文庫版) 尾崎秀樹
解説(朝日文庫版) 細谷正充
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今回は少し章が進んで、「後白河法皇」から。
ご存知のように、大河「鎌倉殿の13人」では、西田敏行が演じている。
挙兵前の頼朝の夢枕に度々登場(?)し、平家討伐を促していたなぁ。
前回の大河では、清盛の訃報に、「天罰じゃ!」と言っていた。
永井さんは、こう書いている。
デスポットか暗王か
異相の帝王ー後白河法皇には、そんな呼び名がふさわしい。脇の張りだした頑固そうな頭、頭頂に平らなことがさらに角ばった印象を与えている。太い猪首、精悍なまなざし、残された肖像画をそのまま信ずることはできないにしても、歴代の帝王の肖像画のおどかしさに比べて、法皇のそれはかなり個性的である。めまぐるしい源平興亡の世を生きぬいた王者にふさわしい風貌といえるかもしれない。
戦前はこの時代を語るとき、かずかずの権力者と複雑にからみあいを見せるこの王者について、人びとは意識して評価を避けてきたようなところがあった。法皇を歴史家や小説家が正面きって主役のひとりとして描きはじめたのは、戦後からである。
かずかずの制約から解きはなたれて、歴史の本舞台におし出されたとき、そこ描かれた法皇の像の多くは、希代の権謀家、強力なデスポット(専制君主)としての姿だった。たしかに法皇の生涯をふりかえってみれば、そうよばれるにふさわしい面を持っている。保元・平治の乱の原因の一端は後白河自身にあったし、その前後の権力者たちー入道真西(藤原通憲)、藤原信頼、平清盛とその一族、源義仲、義経らが滅んだ後も、法皇ひとりは命をながらえている。しかも彼らの多くが、法皇とのかかわりあいのために、非業の死を遂げていることを思えば、まさに法皇こそ、この時代の歴史をあやつっていた主役であり、怪物的なデスポットであるかのように見える。
が、おもしろいことに、法皇は当時の人びとの眼には、必ずしも恐るべきデスポットとして映ってはいなかったようだ。いや、むしろ、君主としての資格がないとか、暗愚だとか軽率だとか、王者にあるまじき評価をうけている。歴代天皇のうち、これほど徹底的な酷評をうけた人も珍しい。
デスポットには、「専制君主」の他「独裁者」「暴君」などの意味もあるようだ。
さしづめ、プーチンは、デスポットに違いない。
宮内庁のサイトに、天皇系図がある。
宮内庁サイトの該当ページ
後白河の前後部分は、こうなっている。

白河天皇からトリミングしたのには、訳がある。
雅仁、のちの後白河は、鳥羽天皇の四男だった。
Wikipedia「後白河天皇」から、引用。
Wikipedia「後白河天皇」
後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉- 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。
まさに、不死身の男、と言えるだろう。
しかし、彼が天皇に即位する道は、決して平たんではなかった。
本書から。
母は中宮、待賢門院藤原璋子(しょうし)。この皇子に、天皇の器ではない、と最初に烙印を押したのは、ほかならぬ父鳥羽院だった。その理由は、遊びが過ぎるから、というのである。
遊びという言葉の意味には、もちろん今日の遊蕩の意味もあろうが、そのほかに皇子には、もうひとつたいへんな道楽があった。「今様(いまよう)」を歌うことである。「今様」すなわち、当世風の歌謡曲に熱中していたのだ。
しかもその熱中のありかたはただごとではなかった。昼はひねもす、夜は夜もすがら歌いあかす。声を破ること三度、ときにはのどがはれて、湯水も通らなくなったが、それでも歌いつづけた、というのだから楽しみの度を越している。はじめは側近から手ほどきをうけたが、のちになると、今様の上手ときけば、京の町の男女、雑仕(ぞうし、下女)、江口や神崎など淀川ぞいに集まる遊女や旅のくぐつ(人形つかい)まで召しよせて伝授をうけた。
こうなってはもう、しろうとの物好きではない。皇族の趣味の範囲を逸脱している。
「あれは即位の器ではない」
父、鳥羽帝が眉をひそめるのも無理はない。もっとも、この言葉の裏には、もうひとつ複雑な事情がからんでいたのを見のがすわけにはゆかない。鳥羽院は、もともと、待賢門院璋子の生んだ皇子を位につけることには、気乗り薄なのだ。それは、院政期にふさわしい璋子の、妖花めいた魔性に原因するものだった。
璋子は鳥羽帝の祖父、白河院の養女として入内してきた女性である。があろうことか、そのときすでに、彼女と白河院の間にはとかく噂があったのだ。彼女の父は権利大納言藤原公実(きんざね)。彼女が七歳のときすでに亡くなっているから、彼の存在についてはしばらく措く。母は藤原光子(みつこ)で、白河の皇子である堀河天皇とその皇子鳥羽天皇の二代にわたって乳母(めのと)として仕えた。この乳母という存在が、若君の保育の全責任者であり、将来ともに大きな影響力を持つことは、これまでたびたたび書いてきたからここでは繰返さないが、ともかく、彼女はとりもなおさず、白河の側近の一人でもあった。
その光子の娘の璋子の美貌が白河の目にとまったのがいつのことかははきりしないのだが、ともかく少女は、白河の寵姫祇園女御(ぎおんのにょうご)にもかわいがられて、その養子になる。ちなみに、この祇園女御については、のちに平忠盛の妻になったという説があるが、これはどうも信じられない。むしろ、平家一門は白河の愛人として女王のごとく振舞う祇園女御を、主人筋の人間として奉仕に明けくれていたというのは真相らしい。
ともあれ、美貌の才女、璋子は、白河を父とし、祇園女御を母とするような形で日を過ごすうち、いつか白河の愛が、父としてのものから男としてのそれに変わったーと史料は伝えている。
(中 略)
璋子はその後まもなく白河の孫、鳥羽天皇の女御として入内して皇子を生む。そのとき、実の父親たる鳥羽天皇は、この皇子顕仁(あきひと)を、
「あれは叔父子(おじご)だ」
と言ったという。つまり、わが子のようでもあるが、祖父を父とした子なら、自分にとっては叔父だ、というのである。
白河天皇と璋子は、五十歳以上も年が離れている。
鳥羽天皇が「叔父子だ」と言った子は、落語でも有名な後の崇徳院。
ということで、後白河天皇は、同じ待賢門院を母とする、崇徳院の八歳下の弟。
この二人は、後の保元の乱で戦うことになる。
待賢門院のことや崇徳院、そして西行のことなどについて、以前、白洲正子さんの『西行』からいくつか記事を書いた。
2018年5月27日のブログ
2018年5月28日のブログ
2018年5月30日のブログ
2018年5月231日のブログ
白河天皇の待賢門院への可愛がりぶりなども、史料から紹介されていた。
大河「鎌倉殿の13人」は、すでに保元・平治の乱の終わった時点から始まっているので、崇徳院は登場しない。
しかし、四回も記事にしたように、『西行』は良い本だった。
興味のある方は、四年前の記事をご覧のほどを。
なお、白洲さんの本では、璋子を「たまこ」と呼んでいる。
しょうし、たまこ、どちらの説もあるようだ。
さて、魔性の女とも言われる待賢門院の子だった後白河が、父鳥羽天皇に、その器ではないと言われながらも即位し、その後、どんな波乱の人生を歩むのかなどは、次回。
マリウポリの状況が、心配でならない。
誰か、プーチンを止めてくれ。
「ゴルゴ13」がいてくれれば、などと思うのは不謹慎なのだろうが、つい、そう思ってしまうのである。
