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永井路子著『源頼朝の世界』より(12)

 昨日、NHK総合で午後4時から2時間、今年1月2日にBSで放送された「鎌倉殿サミット2022」が再放送された。
 初回を観ていなかったので、興味深く拝見。

 昨日の番組表から。
NHKサイト2月27日番組表

 番組の題は、次の通り。
鎌倉殿サミット2022「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」


 出演者は次の通り。
【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【パネリスト】井上章一,近藤成一,佐伯智広,坂井孝一,長村祥知,野村育世
 なかなかの顔ぶれ。 

 井上章一さんが話すと、なんとも言えない温かい空気になるなぁ。

 個人的には、研究者のみならず、作家(たとえば、伊東潤など)も一人加えて欲しかった。

 こう説明されていた。
通説では「落馬」で急死したとされる源頼朝。しかし鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では頼朝の死の前後の記録が、なぜかすっぽり抜け落ちている。しかもその後、2代頼家、3代実朝も相次いで亡くなり、頼朝の血は途絶えてしまう。頼朝の死のミステリーをひもといていくと日本史の大きなターニングポイントとなった鎌倉幕府の真実が見えてくる。鎌倉時代の背景を知れば、大河ドラマの楽しみ倍増間違いなし!

 たしかに、最初のテーマ、頼朝の死の真相、については、謎が多い。

 これは、北条家の正史と言える『吾妻鏡』が、建久六(1195)年十二月二十二日、頼朝が友人の家に遊びに行ったという記事を最後に、建久七(1196)年から建久十年一月までが欠けているためのミステリー。
 再開するのは、、建久十年二月六日、頼朝の長男頼家が後を継いで鎌倉殿となった、という記述からだ。

 だから、「落馬説」ほか、さまざまな頼朝の死因をめぐる論争が絶えない。

 この番組、なかなか面白かったのだが、乳母や乳母一族について、もう少し深く掘り下げて欲しかった。

 話の中で、少しは触れられたが、頼家、実朝の死をめぐる議論では、もっと乳母の存在に焦点を当てるべきだと感じたなぁ。

 永井路子さんの本の影響が強すぎる、のかもしれない^^

 ということで、この本。

永井路子著『源頼朝の世界』より(12)_e0337777_14494516.jpg

永井路子著『源頼朝の世界』(朝日文庫)

 1982年に中央公論社から刊行され、昨年末朝日文庫から再刊された永井路子の『源頼朝の世界』から十二回目。

 目次を確認。

----------------------------------
頼朝とその周辺の人びと
 源 頼朝
 北条政子
 比企尼と阿波局
 頼家と実朝
 北条義時
逞しき東国武者
 三浦一族
 伊豆の軍団
 武蔵七党 
西国の権謀家たち
 後白河法皇
 源 通親
 後鳥羽院と藤原定家

あとがき
源氏三代の乳母関係図
東国武士の分布図
参考史料・参考文献
解説(中公文庫版) 尾崎秀樹
解説(朝日文庫版) 細谷正充
----------------------------------

 「北条政子」の章から、政子の兄弟と妹たちを確認。

 宗 時  旗揚げの折に討死(兄か)
 阿波局  僧全成(ぜんじょう、頼朝異母弟)妻 1227没
 義 時  1163~1224
 時 房(時連-ときつら-) 1175~1240
 某 女  足利義兼妻
 某 女  稲毛重成妻
 某 女  畠山重忠妻

 昨夜の大河「鎌倉殿の13人」で、頼朝挙兵後の戦いでは平家側大庭景親について、由比ヶ浜の戦いや衣笠城合戦で三浦一族に打撃を与えた畠山重忠が、頼朝側に寝返った場面が描かれていた。
 この重忠、後年、上述のように、時政の娘を妻に迎えることになる。

 昨夜の大河、政子が鎌倉入りした頼朝と再会するため、彼女の着物を調達する役だったのが、梶原景時。
 前回、頼朝亡き後、景時が頼家の乳母夫だったこともあり、側近として権力をふるっていたのだが、次男実朝の乳母阿波局の策略もあって、その座を奪われたことを紹介した。

 乳母一族のことは、あの時代を語る上で、やはり、欠かせない。
 
 昨夜の大河、義時が景時に調達を依頼したのは、政子、牧の方、そして、実衣(のちに阿波局)の着物。
 まさか、その実衣が、のちに自分の立場を追い落とす側になるとは、その時、景時は思いもしなかっただろう。

 さて、その景時を失った頼家も反撃し、阿波局の夫、全成が捕らえられ、常陸に流され殺された。
 姉の政子がかばったので、なんとか阿波局は生きのびた。

 しかし、頼家の背後にいる比企一族と、実朝につく阿波局&北条との戦いは、これからなのであった。

 本書巻末の「源氏三代の乳母関係図」をあらためて確認。

永井路子著『源頼朝の世界』より(12)_e0337777_12511920.jpg


 頼家の妻は、比企尼の娘と比企能員の子供、若狭局だ。

 「北条政子」の章から、頼朝が亡くなった後の政子に焦点を当てた部分を引用。

 情の女の常として、夫に捧げた愛情を息子に注ごうとするが、すでに頼家は十八歳、若狭局をはじめ何人かの愛妾がいた。しぜん彼は、若狭局とその実家である比企一族の言うことを聞いてしまう。
 夫に先立たれた妻が常に味わわされる悲しみであるが、勝気で、しかも愛情過多の彼女はそれに我慢できない。みたされない愛はしぜんと憎しみに変わって、それが若狭局に向けられ、されに頼家との間の溝を深めてゆく。しかもこの背後には愛憎以外の政治問題がからんでいる。政子の実家であることを足がかりに、北条一族は、このときまでに鎌倉幕府内にしだいに地歩を築きつつあったのだが、頼朝の死、頼家の将軍就任とともに、地盤は沈下し、代わって頼家の姻戚である比企一族が徐々に台頭してきたのだ。
 政子と頼家の間の対立はいよいよ深刻になってくる。もし、これを、
 -本当の親子なのに、なぜ?・・・・・・
 と思う人がいたとしたら、その人は常識しか解さない人だ。むしろ肉親が憎みあうとき、他人のそれよりブレーキはきかなくなる。しかもその背景に北条と比企の権力争いがからんで、その相克はいよいよ凄絶な様相を呈してくるのである。
 そして、ついに両者の実力対決が行なわれたのが、1203年(建仁三)の比企の乱である。北条氏の攻撃をうけて比企氏は全滅し、頼家はにわかに出家させられ、将軍の座から引きずりおろされてしまう。そしてこのとき、彼に出家を言い渡したのは、ほかでもならぬ政子そのひとであった。
 実の母が冷然として息子を将軍の座から追放するーという図だけ見ると、彼女は血も涙もない女のように見える。しかし、それまでのいきさつを思えば、これはやむを得ない一面もあった。それまで頼家は北条氏を無視しつづけてきた。祖父である時政や叔父の義時の前で、平気で彼らを呼びすてにしていたというし、事あるごに比企寄りの姿勢をしめしたのだから、母親の眼に不肖の息子と映ったのも当然である。そして、
 ー北条家を無視して比企一族のみを重用するこの息子よりも、おとなしい次男の千万(のちの実朝)に将軍職をつがせたい。
 と思うのもしぜんのなりゆきであろう。しかもこのとき、頼家は再起不能の病床にあった。このまま死ねば、将軍職は彼が若狭局との間にもうけた一万(幡)という幼児の手に渡ってしまう。こうなれば、比企の天下である。
 ーそうはさせじ・・・・・・。
 と、頼家の死の直前に、北条氏は一万をはじめ、比企一族を倒してしまったのだ。

 昨日の「鎌倉殿サミット2022」再放送では、頼家とはどんな将軍だったのか、というテーマも議論されていた。
 
 『吾妻鏡』の内容への疑問も提起され、その背後になにがあったのか、という推理も展開された。

 『吾妻鏡』には、十二歳の頼家が、父頼朝と富士の裾野に狩りに出て、鹿を射とめ人びとを驚かせたことが書かれて以降、しばらく彼に関する記述がなくなり、父の死後、将軍職を継いでから登場する頼家は、なんとも我儘な放蕩息子に描かれている。

 本書「頼家と実朝」の章で、永井さんは、こう書いている。

 富士の裾野で鹿を射とめた彼はどこへ行ってしまったのか? 人間はこれほどまでに変わりうるのか?
 その答えは、二つあると思う。一つは、二十になるかならずの彼を自棄的にさせずにはおかない事件が起こったからだ。というのは、将軍になってまもなく、彼は、訴訟の裁断権をとりあげられてしまったのだ。
「まだ将軍家はお若い」
「めんどうな訴訟は老臣どもが引きうけます」
 というようなわけで、大小にかかわらず、訴訟は有力な御家人十三人の合議制によって裁断されることになった。

 これが、「鎌倉殿の13人」ということ。

 そうそう、昨日の「鎌倉殿サミット2022」では、かと言って、13人が全言集まって合議した記録はない、という指摘があった。

 頼家の、少年時と、将軍就任後の『吾妻鏡』の記述の大きな違いの要因の一つは、訴訟の裁断権を奪われた頼家が、周囲は俺を軽蔑している、と思い自棄的になったと、永井さんが指摘。

 永井さんの、もう一つの要因とは。

 それにもう一つ、『吾妻鏡』を読んでいると、どうも、わざと意地悪く、頼家の非行をあばきたてているような傾向がある。そのために彼は実際以上に蕩児ふうに仕立てられてしまったところがある。
 そのいくつかをひろってみよう。
 裁断権をとりあげられた頼家は、小笠原、比企などお気に入りの若者五人を側近とし、この五人が鎌倉で乱暴をしても手向かってはいけないと言いわたし、さらにこの五人以外は頼家の許に出入りを禁じた。
 また、あるときは、家人(けにん)の安達景盛が、京下りの美女を寵愛しているときくと、口実を設けて彼を三河国にやってその留守に女を奪い、その上、帰って来た景盛を討とうとした。これは母親の政子に無法をたしなめられて、やっと思いとどまっている。
 (中 略)
 どれ一つとっても非常識きわまる。これでは将軍をやめさせられるのもあたりまえだと思うような愚行の連続だ。が、これは『吾妻鏡』の巧妙なわなではないか。わざと頼家への批難は一言もさしはさまず、冷酷に愚行だけと並べたてて、それで頼家から実朝への交替を納得させようというやり方は、なかなか知能的だ、ともいえる。
 もしこのあと比企方が勝ち、その史料が残れば、おそらく頼家の人間像もだいぶ違ってくるのだろうが、『吾妻鏡』が残ったことによって、頼家の姿は実際以上に歪められているように思われる。

 三谷脚本は、その言葉遣いが今風(昨日も、政子、牧の方、実衣の三人の会話など、結構笑えた)なことは差し置いて、筋書きは、基本として『吾妻鏡』を踏まえている。

 では、今後、頼朝の死はどう描かれるのか、頼家や実朝という人物をどう表現するのか、乳母一族の存在にどれほど焦点を当てるのか、などは見どころとなる。

 
 さて、次回は、「北条義時」の章からご紹介する予定。
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by kogotokoubei | 2022-02-28 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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