永井路子著『源頼朝の世界』より(7)
2022年 02月 11日

永井路子著『源頼朝の世界』(朝日文庫)
1982年に中央公論社から刊行され、昨年末朝日文庫から再刊された永井路子の『源頼朝の世界』から七回目。
目次を確認。
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頼朝とその周辺の人びと
源 頼朝
北条政子
比企尼と阿波局
頼家と実朝
北条義時
逞しき東国武者
三浦一族
伊豆の軍団
武蔵七党
西国の権謀家たち
後白河法皇
源 通親
後鳥羽院と藤原定家
あとがき
源氏三代の乳母関係図
東国武士の分布図
参考史料・参考文献
解説(中公文庫版) 尾崎秀樹
解説(朝日文庫版) 細谷正充
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引き続き、「北条政子」の章からご紹介。
頼朝との結婚には、父時政が反対したと言われているが、これには、ある伝説もからんでいる。
最もポピュラーな政子の結婚にまつわる伝説は、山木兼隆とのいきさつである。『源平盛衰記』には、父の時政が伊豆の目代の山木兼隆に嫁がせようとしたが、すでに頼朝を愛していた政子は、婚礼の夜に山木の館を逃げだし、頼朝の許に走った、というものだ。
しかしながら、この伝説は前にも触れておいたような理由からどうも成り立ちにくい。山木兼隆が伊豆へ下ってきたとき、すでに頼朝と政子は結婚し、長女も生まれていたはずだからである。しかも兼隆は、はじまから目代として下ってきたのではなく、ある事件にからんで、頼朝同様に配流の身となってやってきたのだ。そして彼が目代になったのは、旗揚げの直前であった。
渡辺保氏の説に従って、一応結婚の時期を1177年(治承元年)ごろとすると、その数年後、この夫婦にとって、思いがけない転換期がやってくる。すなわち1180年(治承四)のいわゆる頼朝の旗揚げがそれである。しかしこれも、「源頼朝」で触れたように、華々しい平家打倒運動ではない。それに先立って都で以仁王と源頼政の挙兵があり、神経質になった平家が、王の令旨をうけた頼朝の抹殺を謀りはじめたので、運を天にまかせて、伊豆を脱出すべく起こした行動なのである。
ということで、父の時政が政子を山木兼隆に嫁がせようとしたが逃げ出したという伝説は、否定できるようだ。
それにしても、時政が平家全盛時代を迎えようとしている時、流人で先の見込みがない頼朝に娘を嫁がせることには反対だったに違いない。
政子の思いの強さに時政が根負けしたのか、それとも、時政は頼朝に賭けるだけの何かを感じたのか。
そのあたりは、何とも分からないのだが、北条家は賭けに勝った。
しかし、鎌倉入りしてからのこと。
その日から政子の境遇は激変した。今までは伊豆の小豪族の娘でしかなかったのだが、これからは、東国の武士の棟梁、鎌倉殿の「御台所(みだいどころ)」と呼ばれるようになる。が、なにしろ北条氏は小豪族だ。周囲にいるのは、秩父(畠山)、小山、足利、上総、千葉といった大豪族である。それらの人びとの視線を受けながら鎌倉のトップ・レディとしての役をつとめねばならなかったのだから、さぞかし気骨の折れたことであろう。北条氏の地位の安定と彼女の身辺の補強を図って、妹たちが足利義兼、畠山重忠、稲毛重成等に嫁いでゆくことはこの時期だ。
前回ご紹介した、時政の先妻が生んだ政子の兄弟姉妹をあらためて確認しよう。
宗 時 旗揚げの折に討死(兄か)
阿波局 僧全成(ぜんじょう、頼朝異母弟)妻 1227没
義 時 1163~1224
時 房(時連-ときつら-) 1175~1240
某 女 足利義兼妻
某 女 稲毛重成妻
某 女 畠山重忠妻
政子は、宗時と阿波局の間に位置する。
だから、政子には、四人の妹がいたようなのだが、「鎌倉殿の13人」では、今のところ、妹は一人しか登場しない。
「鎌倉殿の13人」サイトの該当ページ
サイトから、その図を拝借。

宮澤エマが演じる実衣。
阿波局のようだが、生年が不明。
次回は、頼朝の浮気への政子の厳しい仕打ちなどについて、ご紹介したい。
「鎌倉殿の13人」の次回は、石橋山の戦いでの惨敗後が描かれるようだ。
Wikipedia「石橋山の戦い」から、図を拝借。
Wikipedia「石橋山の戦い」

頼朝たちが隠れる石橋山山中の洞窟を探索する、平家側のある人物の行動も見どころになるだろう。
そして、由比ヶ浜の戦いも、描かれるはず。
最後は、衣笠城の合戦の報せかと察する。
さあ、今日は飲食店のアルバイト、人出不足で、昼からラストまでのシフトだ。
これから、昼食をしっかりとって、出かけなきゃ。
