永井路子著『源頼朝の世界』より(2)
2022年 01月 31日

永井路子著『源頼朝の世界』(朝日文庫)
永井路子の『源頼朝の世界』は1982年に中央公論社から初版、昨年末に朝日文庫から再刊された。
昨日の「鎌倉殿の13人」は、いよいよ挙兵、という場面だったが、先にその引き金になった事件のことを少しご紹介。
平清盛の娘徳子は高倉天皇の皇子を生んだ。のちの安徳天皇である。
安徳天皇即位をきっかけに、以仁王は挙兵したのだが、彼の立場を系図で確認。
( )は天皇の代数。
後白河天皇(77代)
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二条天皇(78代) 以仁王 高倉天皇(80代)
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六条天皇(79代) 安徳天皇(81代)
以仁王は学芸に優れた人物と言われるが、周囲の妨害などもあり、天皇の座に就くことができなかった。
清盛の娘徳子が嫁いだ弟が天皇になったことに加え、その子までも天皇になったのである。
加えて、領地まで没収された。
長年たまりにたまった怒りが爆発した。しかし、結果は歴史が示す通り。
以仁王と源頼政の挙兵が失敗に終わり、加担せず良かったと安堵していた頼朝。
しかし、都から報せが届き、以仁王の令旨を受け取った者を平家側が全員追討するつもりでいると知る。
本書からも少し引用。
にわかの状(さま)変りに頼朝の身辺は慌しくなった。奥州へ脱出ーといわれても急に飛び立つわけにもゆかない。三島の国府の監視は続けられているし、悪いことに近くにいる山木兼隆がここにきてにわかに伊豆の目代におさまりかえったから、行動はいよいよ窮屈になった。じつはそれまで伊豆は源頼政の子の仲綱が国の守(かみ)をしていたのだが、挙兵と同時に国の守を免ぜられ、平時忠が知行国としてあずかり、兼隆を目代に任じたのだ。
目代とは、代官のこと。
以仁王の挙兵失敗によって平家側の代官がすぐ近くに存在していることは、頼朝、そして、頼朝を支援する東国武士たちにとっては、目の上のたんこぶだった。
そういった背景があって、奥州への脱出ではなく、東国武士の打倒平家への象徴として頼朝は担ぎ出された、と言ってよいのだろう。
ということで、あらためて、本書からその前の時期のこと。
父義朝が複数の女性との間に子がいたが、頼朝の母が中流貴族の出でもっとも格が高かったから、頼朝が嫡男になったことを前回ご紹介した。
頼朝より年長の子も、いた。
異母兄の義平(よしひら)、朝長(ともなが)だ。
たとえば義朝の長男の義平は、東海道橋本宿の遊女を母としている。のちに相模の豪族三浦氏にかしずかれて鎌倉・逗子あたりで育ち、例の平治の乱に加わるまで都に姿を現わしていない。十五歳のとき三浦氏と組んで遠く武蔵に遠征し、父の異母弟義賢(よしかた)の首をあげて勇名を馳せた。そのかわり坂東育ちだから、中央の官職などにはありついていない。
平治の乱の名が登場。
前回、頼朝が、平治元(1159)年十二月二十七日に雪の曠野を一人馬で行く姿を本書からご紹介した。
あれは、その平治の乱で敗れた後の頼朝の姿だったのである。
その三年前の保元の乱で、父義朝は後白河天皇側について大功をたてた。その結果、義朝自身も昇進したし、頼朝を出世コースにのせることができた。
平治の乱は、保元の乱の勝利者内部に起こった主導権争いである。後白河の側近である信西(しんぜい)入道と藤原信頼が対立し、それぞれ平清盛と源義朝と組んで戦った。はじめ信頼側は清盛の熊野詣での留守をねらって兵を挙げて信西を殺し大いに気勢をあげた。
このとき、異母兄の義平や朝長とともに父に従って参戦した頼朝は、乱後の除目(じもく)で従五位下、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じられたが、急を聞いて引き返してきた平家側に破られ、父ともども都落ちを余儀なくされる。死すれすれの雪中行進はこの合戦の夜のことである。
途中、義朝は年弱な頼朝をたびたび気づかったようだ。義平、朝長はじめ数騎を連れて東国へ向かう雪の中でも、時々人数を確かめて落伍を防いだのだが、昼の戦さの疲れで、十三歳の少年は、とうとう馬上で居眠りを始めて一行からおくれてしまった。
一行から頼朝が遅れたと知った義朝は、腹心鎌田正晴を引き返させた。
いかし、正晴と出会う前に、頼朝は、危機に直面している。
やっと守山まで来たところで、平家の命をうけて落人を探していた源内真弘という男に見つけられてしまった。
「そこへ行くのは落人とみえた。止まれ」
馬の口を捉えられて、少年の運命はきわまったかにみえた。
が、このとき、頼朝は年に似合わぬ度胸を見せる。
「いやいや謀反人ではない。合戦などあって都も騒がしいので、難を避けて田舎に下ろうとしているところだ」
「嘘をつけ」
真弘はじろりと頼朝のいでたちを一瞥した。このとき頼朝は先祖の八幡太郎義家以来源家に伝わる「源太が産衣(うぶぎぬ)」という鎧を着ていた。胸板に天照大神・正八幡宮をあらわし、袖には藤の花のかかったさまをおどした鎧だというから、一見してこれは尋常のものではないとわかるいでたちである。
ーおそらく、源氏の公達に相違あるまい。
こう踏んだ真弘は少年とあなどって力ずくで馬から抱きおろそうとした。瞬間、頼朝は鐙(あぶみ)を踏んばり、馬上で突っ立つようにして渾身の力をこめて太刀をふりおろす。
「通せっ。通せと言うにっ」
この太刀も、義家以来相伝の「髭切(ひげきり)」という逸物だったという。狙いあやまたず太刀は真弘の頭を割る。騒ぎに驚いて駆けつける宿の雑人どもを尻目に馬に鞭をくれて雪煙をあげ、彼はその場を走り去る。やっと野洲河原まで来たところで頼朝を捜しながら戻ってきた正晴にめぐりあい、ともども馬を駆って鏡の宿で一行に追いついた。
その後、義朝は、頼朝を先頭に東へあらためて行進を進めたが、頼朝は、また父や兄にはぐれてしまった。
とはいえ、頼朝にとっては、結果として、それが良かったとも言えそうだ。
義朝一行は美濃の青墓(あおはか)に着き、ここで義平は越後へ、朝長は信濃へ下って再起を図るように命じるが、それまでに受けた矢傷が重くなった朝長は、青墓に戻ってくる。敵の手にかかるよりも、と義朝は涙ながらにわが手にかけ、尾張の内海まで下るが、そこで代々の家人だった長田忠致(ただむね)に裏切られて殺される。
一方の頼朝は、どうしたか、人びとにおくれて、雪中をさまよいつづけて、ふと行きずりの小屋の軒下に身をひそめて中の様子を窺うと、
「このあたりに源氏の落人がいるだろうから、探し出して平家に差しだし、恩賞にあずかろう」
などという話し声が聞こえる。身の縮む思いでその場を離れ、ある谷川のほとりで、もう自殺するよりほかはない、と覚悟をきめたとき、一人の鵜飼に出会った。
「もしや、源氏の公達では?」
と声をかけられたが用心して黙っていると、
「おかくしなされるには及びませぬぞ。いま平家方の侍が探索しながら里に下ってゆきましたからな。御用心あれ」
と言ってくれた。頼朝はその言葉にすがるようにして救いを求め、鵜飼の厚意でその家にかくまわれて急を逃れ、その後女装してやっと青墓に辿りついて。
二度にわたる危機脱出ーいずれも『平治物語』にある話なので物語的脚色がなされているとは思うのだが、ともあれ頼朝が雪中で落伍しながら稀有の命を長らえたことだけは事実である。
絶対絶命の危機を脱した頼朝ではあったが、結局、青墓にいることを平家側に知られ、頼朝は捕らえられた。
しかし、清盛の継母、池禅尼(いけのぜんに)が、頼朝が亡くなった子家盛の生き写しだとして命乞いをしてくれたおかげで、奇跡的に命は助けられ、伊豆に流されることとなった。
大河の一回目、頼朝が女装して逃げる場面があったが、あれは、鵜飼の家にかくまわれた後の逸話を元にしたのかと思う。
昨夜は、王将戦終局後、「鎌倉殿の13人」を経て、NHK Eテレで中村吉右衛門追悼番組を見た。
NHKサイトの該当ページ
「平家物語」を元にした『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の三段目「熊谷陣屋」がノーカットで放送された。
熊谷直実役の吉右衛門、いいんだよね。
相模役の玉三郎も、なんと艶っぽいことか。
そして、熊谷直実-平敦盛-青葉の笛、となると、高座のマクラでよくこの話を聞かせてくれた柳家小三治のことを思い出さないわけにはいかない。
昨年は、本当に多くの素晴らしい役者や噺家さんが旅立った年だったなぁ、と思うばかり。
次回は、頼朝を助ける乳母と乳母一族のことなどをご紹介する予定。
