中村哲『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(聞き手 澤地久枝)より(18)
2022年 01月 26日

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』の副題は「アフガンとの約束」となっている。
澤地さんが中村さんの活動を支援したいと思い、中村さんに会って本を出そうと考え、ようやく2008年と2009年に実現した対談を元にした本。
2010年に岩波から単行本が刊行され、昨年9月に岩波現代文庫で再刊された。
十八回目。
目次をご紹介。
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はじめに
Ⅰ 高山と虫に魅せられて
Ⅱ アフガニスタン、命の水路
Ⅲ パシュトゥンの村々
Ⅳ やすらぎと喜び
あとがき 澤地久枝
あとがきに添えて 中村哲
岩波現代文庫版あとがき 澤地久枝
[現地スタッフからの便り1] ジア ウルラフマン
[現地スタッフからの便り2] ハッジ デラワルハーン
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澤地さんの文庫版あとがきから、ご紹介。
なお、同文庫は昨年9月の発行である。
これは自慢にもならないが、昨年九月、九十歳になった。その日、わたしは第二脊椎骨折で、ベッドからはなれられない状態だった。
死ぬとは思わなかった。寝室で転んだのである。
年齢がもたらす限界を知るべく、なにかがころばせた、とこのごろ思う。
この四月、車椅子で沖縄にへ行った。十日午後、「中村哲さんをしんぶ会」がひらかれ、琉球新報と沖縄タイムスほかが主催、わたしは短い話をした。
先生は2019年12月4日、銃撃されて亡くなられた。七十三歳であった。
その頃、『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』は一時的に売り切れて、書店の店頭から消えていた。重版ができあがったのは、翌年一月である。
先生の体重にいたるまで、聞き手のわたしは、なんでも聞いている。ほかにこの種の本はない。先生はわが身わが家族にかかわることを、きびしく制限され、夫人の名前も、語られることはなかった。
先生と共著のかたちだが、わたしは「聞き手」に徹した。時間がひどく制限され、それは先生の仕事を考えれば、避けられない。先生の著書を読みぬいて、そこから得られる人生のすべてをまとめようとした。
さいしょのゲラずりをみていただいたが、一章分すべて削除だった。なぜカットになったのか、うかがったことはない。
中村先生の人生を知り、ペシャワール会の会員になっていたが、送金する全国からの会費はすべて、会の収入になる。先生御一家がどのように暮してこられたのか、誰もふれていない。それは、先生がこばまれたからである。
印税という誰にも異議申立てのない収入がものかきにはある。
共著の形で一冊の本をつくり、印税はすべて先生個人のもとへゆくようにする。そう考えて、こわいもの知らずの駆け足がはじまった。
削除された一章分の中身が気になるが、それはまさに、下衆の勘繰りだろう。
対談が行われた2008年、2009年は、澤地さんが七十八、七十九歳の時にあたる。
2014年9月、原発反対の集会に行った。
代々木公園から亀戸中央公園に場所を替えた、「さようなら原発1000万人アクション」だった。
八十四歳の澤地さんもいらっしゃった。
2014年9月24日のブログ
あの日、行進前のステージの立ったのは、次の方々。
木内みどり(司会)
鎌田慧
内橋克人
澤地久枝
大江健三郎
大石又七(第五福竜丸元乗組員)
向原祥隆(反原発・かごしまネット代表)
橋本あき(原発いらない福島の女たち)
古今亭菊千代(落語家)
パク・ヘリョン(韓国・脱原発新聞共同代表)
チェ・スーシン(台湾・台湾緑色公民行動連盟事務局長)
広瀬隆(作家)
落合恵子
大石又七さんは昨年亡くなった。
まさか、木内みどりさんまで、あんなに早く、とは思わなかった。
暑い日で、澤地さんが登壇した際、菊千代が日傘を持ってあげたことを思い出す。
木内さんの報告で1万6000人集まったとのことだった。
翌2015年7月の、日比谷であった「戦争法案反対」の集会と国会へのデモ行進にも参加した。
2015年7月29日のブログ
東京新聞には、こう書かれていた。
「戦争法案を廃案に」 日比谷で1万5000人が反安保デモ
2015年7月29日 朝刊
安全保障関連法案に反対する集会が28日夜、東京の日比谷野外音楽堂で開かれ、参加者約1万5000人(主催者発表)が「違憲の戦争法案を廃案に」と訴えた。夜に入っても気温が30度を超える暑さの中、参加者は「安倍政権の暴走を止めよう」と声を上げ、国会へデモ行進した。
この時、私は澤地さん発案で、書道家の金子兜太さんがお書きになった「アベ政治を許さない」を持参し掲げた。
澤地さんは、卒寿になって脊椎骨折しようと、車椅子で沖縄に駆けつける人なのである。
年齢に関係なく、権力に屈しない強い女性の象徴は、瀬戸内寂聴さんから澤地さんに受け継がれたのかもしれない。
本書の単行本が発行されても、澤地さんの中村医師をなんとか支援したいという思いは変わらなかった。
短い中村医師の帰国期間での講演にも通われている。
引用を続ける。
2019年9月9日、友人と待ちあわせて、川崎市の講演会場へ行った。
先生は全国で講演をされている。この日の直前、8月24日、若松市県民会館で話をされている。伯父の玉井史太郎氏(火野葦平の三男で、先生の母の弟居、2021年1月逝去)の招きと思われる。そのときの写真がある(『わかまつの宝箱』第29号)。ネクタイなしの背広姿、額をおおう髪が白くなられている。
講演会は有志によるボランティアである。川崎のこの日、先生がひどく痩せられ、表情もかわったとわたしは感じた。そういう先生の時間を奪うまいという気持ちもあった。
この日が、襲撃される百日前と考えたひとはいないと思う。あわただしくアフガニスタンへ帰ってゆかれるのだ。きょうはお目にかからない、というのがわたしの結論だった。
帰る電車のなかで、ひどく気持ちがおちこんだのをおぼえている。そして、12月の急報である。
このあと、ご次男が十歳で亡くなられた時の中村医師の言葉が続き、2020年1月25日の中村先生をしのぶ会で初めて先生の奥様にお会いできたことや、奥様からいただいた手紙の内容などが紹介されている。
そして、文庫版あとがき、は、次のように締めくくられている。
さいしょに本ができたとき、多くのたちに贈呈した。宣伝してもらいたかった。思案して、アメリカ大統領オバマ氏にも送った。なにも反応はなかった。予期したことではある。
しかし、文庫になって世のなかへ出てゆくこの本が、亡くなった先生への思いにとらわれて、この「あとがき」の文章がなかなか書けない状況で出版されるとは思ってもみなかった。たくさん売れてほしい。
死後の世界は信じないが、のこされた夫人と子どもたちのために、「やあ」と笑顔の先生が十歳で亡くなった次男と「再会」する状況をくりかえし、イメージしている。
この本は、紛れもなく中村哲医師の本であるが、聞き手澤地久枝さんの存在なしには、成り立たないものだった。
今や、数少ない、ジャーナリストである澤地久枝さんに、感謝するばかりだ。
まだ前半で紹介したい内容もたくさんあったし、[現地スタッフからの便り]も割愛するが、これにてこのシリーズはお開き。
長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
ご紹介できなかった部分は、ぜひ実際に本書をお読みください。
さて、今日は夕方からラスト(20時)までの飲食店のアルバイトだ。
まずは、愛犬ユウの散歩に行かなきゃ。
