母の誕生日、ようやく、父の遺した文章の書き起こし終了。
2022年 01月 20日
連れ合いは、日帰りで越後長岡で施設に入っている義母に会いに行った。
あちらも感染が拡大中だが、病院も複数予約していることもあり、許可がおりた。
そろそろ、病院が終わり薬局で薬をもらって、義母の好きなものを食べに行っているのだろう。
年末の帰省の際、母が、父が遺した「私の人生」と題する文章を発見し見せてくれたことを記事で紹介した。
2021年12月29日のブログ
最初の日付が2006年1月9日とあるから、ほぼ十六年前になる。

当時、八十四歳を迎えようとしていた父が暇そうにしていたので、母がノートとペンを渡し、自分の半生記でも書きなさいと言って書かせたものらしい。
ボケ防止のためでもあったのだろう。
独特の字が、孫の使い古しのノートに11頁並んでいた。
滞在中には書き起こしを完成させることができなかったので、持ち帰った。
今日は、母の九十五歳の誕生日。
ということで、何とか先程完成させ、実家近くに住む兄にメールで送った。
文章は、まだ二十歳台の前半で終わっており、「私の人生・序章」とでも言うべきなのだろう。
兄にプリントアウトしてもらい、私からの誕生日プレセントとして母に渡してもらう。
A4で6ページになった。
その中から、戦争について、生前は聞くことのできなかった部分をご紹介。
いよいよ日本も昭和十六年十二月八日に米国との太平洋戦争が始まった。
次々に男に召集令状が来た。ついに私にも昭和十七年十二月末に赤紙が来たのだ。
私は小学一年生の頃、左目の角膜炎をしていたので、視力はぎりぎり0.7位だったので第二乙となり、甲種合格ではなかったが、召集された。二十歳の時だ。
私は帯広の防空隊に入隊することになった。帯広の冬の寒さは道産子にも厳しいもので、マイナス25度にもなった。
南方の戦線ではガダルカナル島や硫黄島で次々に日本は敗退した。アメリカと日本とでは戦力は大人と子供の差があると私は心の中で思っていたが、その時の日本は、国民一丸となって男も女も勝つためにアメリカと戦っていたから、とても口に出すことはできなかった。
私は防空隊、高射砲で飛行機を落とす役割だった。毎日毎日高射砲で訓練した。いよいよ米軍が日本本土に近づき、北方戦線ではアッツ島、キスカ島と次々と米軍が優勢になった。
私は北部九十一部隊だった。冬は外で上半身ハダカでグランドを回ったが、自分の身体が他人の身体のようになるのだった。
南方に行く部隊もあった。
自分たちも南方戦線に行きたいと思ったが、途中で南の島に着く前に米軍の魚雷で船が沈んでいると聞かされた。
軍隊で飯を食うつもりで下士官候補に志願した。特別教育隊に入り、本土防衛のための訓練を受けた。
いよいよ私たちも訓練が終わったので、それぞれの隊に転属される時がきた。
Nと私の二人は小樽の手宮部隊に行くことになった。
手宮部隊は公園の広場に四か所高射砲の陣地が造られていた。
場所は眼下に小樽港、後ろは山だった。
私は第四分隊の分隊長に命じられた。十二名の隊で、秋田や山形出身の兵士がいた。
毎日毎日が訓練の日々だった。
新聞では米国艦隊が室蘭港沖まで来て、艦砲射撃で市街は相当に被害があったとのこと。いよいよ、私たちの所にも米飛行機が飛んで来ると思った。
自分では、米軍の爆撃機が海の方から飛んで来るなら、高射砲を水平にして米軍の艦船をめがけて打てばいいと思っていた。
いよいよ、実弾を打つ時がきた。
夏の暑い日だった。高射砲の陣地を囲んで、弾丸を砲に詰めて準備をしていた時、背後の山の上の方角に低空でグラマンの爆音が近づいて来た。
私の隊が一番先に攻撃をした
後で知ったが、二、三機敵機が落ちたと聞いた。
グラマンは小樽港に停泊していた日本軍の船を爆撃したようだ。
日本の最後の日が近づいてきたと思った。
8月15日、天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるということで、部隊全員が兵舎の前に整列した。ラジオの調子が悪いので、陛下のお言葉がよく聞き取れなかった。
その後、日本の敗戦を知った。
家に帰れると思った。
9月15日、我々の部隊は家に帰ることが決まった。
帯広のことは聞いたような気がするが、手宮のことは知らなかった。
思い出しながら、何日もかかって書き記したのだろう。
尋常高等小学校を出てすぐに自転車店での丁稚奉公に入った父だから、決して文章は巧いとは言えないが、読んでいて、何度か目頭が熱くなった。
朝日新聞の2015年11月25日付記事に、小樽手宮の高射砲台座跡について記事が見つかった。
朝日新聞の該当記事
戦後70年 北海道(2)【ダークツーリズム】
(8)高射砲台跡(小樽市)
■トラックわき、寄り添う碑
小樽駅付近から北に延びる急坂を登り切ると、港を見渡せる手宮公園陸上競技場に着いた。場内のトラックわきの斜面を見やると、トラックの赤と芝の緑になじまないコンクリートの塊が目に飛び込んできた。円形のコンクリートの台座に12本のさび付いたボルト。空を守った高射砲の台座跡だ。
当時の小樽市は陸軍の輸送部隊が置かれ、千島や樺太に兵士や物資を送る拠点だった。米軍の空からの攻撃に備え、音更町にあった高射砲第24連隊が1943年5月に小樽に駐屯。手宮陣地に配置され、高射砲4門を空に向けた。
資料が乏しく、これらの高射砲が米軍機を迎撃したかどうかはわからない。「戦争を語り継ぐ小樽市民の会」代表の鴫谷(しぎたに)節夫さん(79)によると、45年7月15日の空襲では、同陣地の1人が死亡したという。
部隊の有志らは2009年6月、高射砲台座跡に石碑を残した。「戦禍において亡くなられた方々を慰霊すると共に、平和を祈る標として、ここに記すものである」と刻まれた。
鴫谷さんは「小樽空襲に関わる碑はここだけ。小樽が激しい空襲を受けたことを残し、語り伝えていかなくてはいけない」と語った。(光墨祥吾)
今回の帰省で知ったのだが、父は、この2009年6月に台座跡の石碑の完成記念式典に参列していて、実家にはその時の写真もあった。
これが、朝日新聞から借りた台座と石碑の写真。

重要な戦争の語り部の一人だったはずの父。
もっと聞いておけばよかったと後悔していたが、重要な記録を残していてくれた。
父の、大好きなカラオケを歌う姿が目に浮かぶ。
そして、満面の笑顔。
戦争のことに続いて、母との見合いのことや結婚式のことも書き遺されていた。
いつも誕生日には、母の好きな食べ物を送るのだが、くどいくらい何もいらない、と言われていた。
たしかに、姉や兄、姪などからたくさん届け物があり、一人では食べきれないくらいだった。
今回は久しぶりに実家で年を越したこともあり、何も送らなかった。
しかし、なんとか、父の記録を残すということで誕生日プレセントができたのかもしれない。
