中村哲『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(聞き手 澤地久枝)より(13)
2022年 01月 15日

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』の副題は「アフガンとの約束」となっている。
澤地さんが中村さんの活動を支援したいと思い、中村さんに会って本を出そうと考え、ようやく2008年と2009年に実現した対談を元にした本。
2010年に岩波から単行本が刊行され、昨年9月に岩波現代文庫で再刊された。
十三回目。
目次をご紹介。
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はじめに
Ⅰ 高山と虫に魅せられて
Ⅱ アフガニスタン、命の水路
Ⅲ パシュトゥンの村々
Ⅳ やすらぎと喜び
あとがき 澤地久枝
あとがきに添えて 中村哲
岩波現代文庫版あとがき 澤地久枝
[現地スタッフからの便り1] ジア ウルラフマン
[現地スタッフからの便り2] ハッジ デラワルハーン
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引き続き、第三章「パシュトゥンの村々」から引用したい。
2008年8月の最初の対談の後、参議院の要請で再来日した11月に二度目の対談が実現した。
そして、ご長男の結婚式のあった2009年2月に三度目の対談が実現。
紹介するのは、その三度目の対談の内容。
水路建設に関する話題から引用。
澤地 いまはとても大事なときで、二十万の人、それもただの二十万じゃなくて、これからの希望の種になるかもしれない二十万の人たちの生存を左右するところへ差しかかっている。先生が自分一人でも残って仕事を継続するというお気持ちはわかります。
中村 われわれが預かっている命というのは、約六十万人です。
澤地 六十万人になったんですか。
中村 六十万人ですよ。
澤地 それは、人がだんだん寄ってくるということですか。
中村 いや、それは水路沿いだけじゃなくて、われわれは、ほかの涸れた用水路も手掛けているんです。
澤地 水を分けるのでうsか。
中村 自分たちの作っている用水路だけではありません。クナール川の水位がさがっているので、川沿いのどこも取水に困っています。堰上げ工事をやりまして、ほかの村々の用水路も復活させているんです。、われわれが撤退すると沙漠化してしまうだろうという用水路、それらを併せて灌漑面積が約1万4000ヘクタールです。
全部で約六十万人の農民が暮らしています。この人たちの生命が、どうなるのかなのです。
澤地 たいへんなことですね。
中村 私たちの強さというのは、現に目の前に、私たちの事業によって生活できる人があふれていること。そのことが何よりも雄弁なアピールです。胸を張って、こういう仕事で六十万人の人たちが、私たち事業で食えていますという事実。それで私たちも喜んで働くし、それを支える側も「それはほんとうですか。お金の出しがいもあります」ということで続いているんですね。それが、事業をほったらかして、会の存続だけを考えるようになったとき、会の生命は終わったと考えてもいいんじゃないかと思います。
澤地 ペシャワール会は、日本人のボランティアによって支えられてきたのだから、日本人もそう捨てたものじゃないと思おうとしていたけれども、現地の中心である中村先生が、あんなに全国で話をして歩かなければならない。そういうペシャワール会というものに、私は正直、いささか疑念が起きていたわけです。
先生は、ほんとうは現地にいらっしゃるのがいちばんいいんですよね。たまには帰ってきてほしいけれども、なぜ、先生があんなに走り回って報告講演会をされるのか。あの講演もペシャワール会維持のためみたいな気がしていたんです。
中村 いや、それは違います。それは、私が金が欲しかったんです。
澤地 そのお金はそっくり水路の建設資金にいったんですか。
中村 ほぼ九十パーセントはいっています。
澤地 ああ、そうなのですか。先生は土木工学の勉強をされ、設計図も引き、自身、水路で大きな機械を操作して水を通したけれども、同時にその機械を買うお金も、労働する現地の人への支払いも、自分で走り回って集めていらしたんじゃないですか。
中村 私が講演することで、募金もずいぶん増えたし・・・・・・。
澤地 そうでしょう。
中村 それだけではなくて、「あとを頼むよ」と言って、それを整理して現地へ送ってくれる人たち、それぞれ快く出してくれる人たち、そういう人たちによって支えられてきたんですね。
この数カ月、これほど安心して事業に打ち込める時期はなかったです(笑)。日本に帰って講演しなくていいんですもの。現地は、日本と違って何が起こるかわからないし、何時何分にどこどこでどんな仕事を始めましょうと言って、来れる場所じゃない。講演となりますと、どうかすると一年も前から準備をして待っているわけです。何月何日までに帰ってこいというのは、非常にストレスなんです。
澤地 そうでしょう。よくわかります。
中村 フライトが遅れて、「こんどはいつですか?」と聞くと、「一週間ぐらい延びますかね」と(笑)。でも、主催者はそうはいかない。
澤地 会場を、一年ぐらい前にやっと確保して・・・・・・。
中村 そうなんですよね。それを考えると、多少は、向こうの事業などを犠牲にして・・・・・・ということもないではなかったですね。そのために、工期はおそらく一年以上遅れたでしょう。
現地での水路建設の指揮をとるために中村医師は現地にとどまりたい。
しかし、その工事には多額の費用がかかる。そのためには、日本での講演を含む募金の呼び掛けも必要だ。
アフガンと日本を行き来する中村医師には、休む間がない。
しかし、水路ができ、砂漠に緑が戻り、故郷にアフガンの人々が戻って麦を植え自給できるようになる姿を見ることで、中村医師の苦労が報われていた。
繰り返すが、上記の対談は、2009年2月に行われた。
西日本新聞サイトでは、中村医師について多くの特集ページを読むことができる。
「こどもタイムズ」というシリーズでも中村医師の事業を紹介している。
大幅に前半を省略するが、この対談で語られている、クナール川から取水できない地域への用水路に関する記事を引用する。
西日本新聞サイトの該当ページ
「命の水」をひく中村哲先生の物語 砂漠を緑にかえたお医者さん(3)「百の診療所よりも一本の用水路」
2020/3/12 18:52 (2020/5/28 17:03 更新)
(前 略)
水がないために村を離れていた人ひとたちも「水がくる」といううわさを聞ききつけて帰ってきました。
生きていくためのお金をかせぐために兵隊の仕事をしていた人もよろこんで銃を捨て、シャベルを持って工事に協力しました。500人もの人ひとが働く日ひもありました。
あちこちから集めた石を積み重ねて、用水路をつくりました。シャベルで地面をほり、大きな岩があれば機械でけずりました。中村先生もショベルカーを運転しました。
2010年、7年かけてようやく1本の用水路が完成しました。名前は「マルワリード」。地元の言葉で「真珠」という意味です。中村先生は63歳になっていました。
西日本新聞の中村医師の人と事業を伝える活動は、貴重だ。
マルワリード用水路の写真も拝借。

対談の翌年に、この用水路は完成している。
次回は、第四章「やすらぎと喜び」からご紹介する予定。
さて、これから飲食店のアルバイトだ。
時短になるのはいつからだろう。
感染のスピードに比べ、対策が遅すぎる。
