北海道への帰省ー父の四十九日と納骨、約四十年ぶり実家での年越し(6)
2021年 12月 31日
母は、故郷を離れ伊達の女学校で寄宿生活をし、週末に実家へ帰宅する生活をしていた。
その女学校の恩師、峰山巌先生。
今朝、検索して、伊達市噴火湾文化研究所が発行するニュースレター「噴火湾文化」の2020年3月発行第14号を発見。
伊達市サイトの該当ページ
噴火湾文化研究所の永谷幸人さんが「縄文時代の大規模集落遺跡群ー若生(わっかおい)2遺跡ーの発掘調査」という題で書かれていた文章に、峰山先生のことが書かれていたので、引用したい。
1 .貝壕が密集する大規模遺跡群
2019年に発掘調査を実施した若生2遺跡は、園道37号線の若生バス停付近に位置する、縄文時代中頃(約5.000年前)の集落遺跡です。
遺跡は海岸線から約700m内陸のE陵上にあります。このE陵は、遺跡の北側に位置する有珠山が山崩れを起こした際に流れ出た土砂や岩石を基盤としているため、周囲には巨石が転々と露出し、起伏に富んだ地形を形成しています。
遺跡の北東400mの地点には、若生という地名の語源(アイヌ語のiwalく|くa-Q-j=水・ある・処J)となっている湧水点があります。この湧水点を中心とする6つの地点に員塚が分布する大規模な集落遺跡群(若生貝塚と若生2遺跡)として知られており、若生2遺跡はその中のC.D地点に該当します。
2.若生遺跡群の調査・研究史
若生遺跡群での最初の調査は、1920年頃に二ール-ゴードン・マンロー(スコットランド出身の考古学者)が行った現地調査と遺物採集であるとされます。
1950年には、峰山巌教諭率いる伊達高校郷土研究部員によって4 箇所の貝塚(A~D地点)が発見されました。
その後、同研究部と北海道大学助教(当時)の名取武光氏によってA地点の発掘調査が行われ、貝層の厚さが3mlこもおよぶ縄文時代前期(約6.000年前)の道内最大級の貝塚が良好な状態で保存されていることが明らかにされました。
以後、発掘調査は行われてきませんでしたが、1999年に土地所有者が畑地の巨石を除去した際に貝塚が露出したとの連絡を受けた市教育委員会によって、遺物の回収作業が行われ、新たにE地点の貝塚が発見されました。
2014~2016年には、伊達市噴火湾文化研究所による科研費研究「噴火湾沿岸の縄文文化の基礎的研究(基盤研究(8)) J (研究代表者:青野友哉)による発掘調査が実施され、A.E地点の貝層のブロックサンプル採取及び分析が行われたほか、分布調査によって新たにF地点の貝塚や竪穴住居や墓といった集落を構成する遺構が発見されています。
地図も拝借した。


昭和二十五(1950)年に、母の恩師峰山先生と生徒たちが、若生の貝塚を最初に発見したんだね。
そして、峰山先生は、北黄金を含め、噴火湾沿岸地域の数多くの遺跡、貝塚の調査をし記録を残していることが、紹介した文中にある青野先生の論文などからも分かった。
北海道大学サイトの該当ページ
峰山先生が数々の業績を残した、地元の伊達高校のことを少し。
母が通った学校も、この高校のルーツの一つである。
伊達高校のサイトから、沿革の一部を引用。
「伊達高等学校」サイトの該当ページ
大正11.7.5 有珠郡伊達女子職業学校(村立)設置認可
11.10.25 有珠郡伊達町梅本町55番地に校舎新築
昭和17.12.11 伊達高等家政女学校と校名変更
21.3.31 北海道伊達高等女学校と校名変更
23.3.31 北海道伊達女子高等学校と校名変更
24.3.31 北海道伊達高等学校に同時統合
母は女子職業学校の時に入り、途中で高等家政女学校となったとのこと。
あら、この学校、父の生まれた大正十一年創設だ。
来年、創立百周年。
少子化により、今年4月に、伊達高校は、別の緑丘高校と統合され伊達開来高校と名が変わっている。
創設70周年記念祝典に峰山先生が出席されるということで母も参加したら、先生は母の旧姓を呼んでハグ(?)してくれたとのこと。母は、級長として先生には大変お世話になったと語る。
まさか、世界遺産の貝塚と母がつながるとは思わなかった。
昨夜、帆立の刺身を食べながら母との会話は、その前に書いた記事からつながるとともに、新たな発見でもあった。
帆立という地元名産の貝が、貝塚をめぐる縁をつないでくれたのかもしれない。
