中村哲『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(聞き手 澤地久枝)より(5)
2021年 12月 28日

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』の副題は「アフガンとの約束」となっている。
澤地さんが中村さんの活動を支援したいと思い、中村さんに会って本を出そうと考え、ようやく2008年と2009年に実現した対談を元にした本。
2010年に岩波から単行本が刊行され、今年9月に岩波文庫で再刊された。
五回目。
今回も、第一章「高山と虫に魅せられて」からのご紹介。
前回は、中村さんは、対人恐怖症だったことを紹介した。
また、虫が大好きな中村さんが、精神科の医者になれば、北杜夫のように閑な時間に昆虫たちと戯れることができるだろうと思ったのだが、とんでもな間違いで、精神科医は閑じゃないし、患者の言うことがどれほど馬鹿げたことでも、否定することなく聞くのが仕事であって、それは、ストレスのたまることだった。
では、そんな不安定な心理状態から、どうやって脱することができたのか。
前回紹介したように、『夜と霧』の作者ヴィクトール・フランクルの著作を読んだことや、内村鑑三を通して感じていたことを、九州大学の哲学教授から勧められた神学者カール・バルトの著作にふれて再認識し、「これでいいんだ」と思うことができた、と中村さんは語っていた。
引き続き、二人の会話。
精神の転機
澤地 対人恐怖症のような方が仕事につかれたということは、どこかでそれから解放されるような何かがあったんでしょうね。
中村 あれから確かに、人が変わったといえば変わりましたね。というのは、それまでは「これをしなければ」「すべきだ」ということに縛られてしか生きてこれなかった。しかし、いい加減という意味ではないですが、「これでもいいんだ」ということですね。そのことについて、何か知ったような気がしたんですね。
そう思って論語や聖書を読み返してみると、たしかに偉い人はそう書いてるんです。親鸞聖人だって、「人間は立派じゃないと救われない」なんて書いてないわけです。悪人だって・・・・・・と。そういう感じでしたね。わかる人にはわかってたんだなと思って、それでずいぶん楽になりました。これは、あまり抽象的な話なので、あまり理解してもらえませんけれども、自分にとっては非常に大きな転回点でしたね。
澤地 宗教書や哲学書をかなりお読みになったんですね。
中村 その頃は読みましたね。なんべん読んでもわからなかったけど、それをきっかけにして、「ああ、こういうことなんだ」と・・・・・・。キェルケゴールの『死に至る病』の、「人間とは関係である。関係とは関係が関係する・・・・・・」とあるじゃないですか。何のことかさっぱり・・・・・・。「こんなことを考えていたら、それこそノイローゼになるんじゃないか」と思っていたら、ちゃんとそういうことが書いてあるんですね。
われわれは、自分だとか、個人だとかいろいろ言うけれども、実体はその人とある対象との響きあいのなかで自分というのは成り立っている、ということも知りましたよね。人間というのは関係だと。生物個体としての自分はあるけれども、その人の個性だとか、「その人」と呼ばれているものは、いろいろなものごととの関係のなかから生まれてくるのだということは、事実でしょうね。
「すべき」とか「やらねば」という切迫感から、中村さんはさまざまな本を読み、いろんな人と会うことで、救われたのだろう。
人間とは関係である、という言葉、私も還暦を過ぎ、分かるような気がする。
個性とか「その人」と呼ばれるものも、関係のなかから生まれる、というのも、説得力がある。
若い時の悩みについて、二人の会話は続く。
澤地 そのときは真剣に悩んでいるわけですよね。
中村 真剣でした。
いろいろありましたが、やはり偉大だとか、古典だとか言われている人たちの著作と触れ合うことは、捨てがたいものがあって、この先も残っていくでしょうね。
澤地 論語の素読えおやらされていたことが、力になったのじゃないですか。
中村 論語の教える行動原理が身についていて、そのとおりに動いているんですね。両親は、論語は宗教ではなくて、一般的な道徳心を説いているので、共産主義であろうと、右翼であろうと同じなのだと言いましたけれども、あれは十分宗教的ですね。人間の行動原理を律するという意味では。
だから、若いときにそういうものに接したということで、自分はしあわせだったんじゃないかと・・・・・・。
澤地 それは目に見えない、たいへんな財産ですね。
中村 そう思います。その影響力は、いまでもイヤというほど残っています。現地で見ていると、コーランを丸暗記するんですね。小さいときから、意味がわかろうが、わかるまいが・・・・・・。アラビア語ですので、とてもわかるとは思えないのですが。それを考えると、わたしの受けた教育と、そう隔たりはないわけです。いまはわかっていないけれども、だんだん身についていく倫理観というのがあるんだなという気がします。
澤地 コーランはとても神聖なものなのに、米軍がコーランを標的に実弾演習をやったことで、アフガンの人たちは非常に怒っているんじゃありませんか。
中村 日本人でいえば仏壇の位牌と同じくらい尊重すべきものですね。外国人が、仏壇の位牌を標的にして射撃の練習をしたら、怒りますよね。それと似たようなものがあるんじゃないでしょうか。だから、その地域で神聖とされているものを、やたらに粗末にしたり、バカにしたりしてはいけないような気がします。ホントに罰当たりですよ。
この文をあらためて読んで、四十九日法要を思い出した。

列席していた二人の姪の子どもたちは、実家からすぐ近くに住んでいたこともあり、父、彼らにとって曽祖父に遊んでもらい、大好きだった。
法要の後、住職は、小学二年生から中学三年までの彼らのために、お経のことをこう説明してくれた。
経は、経度が地球の縦の線のことのように、お経は、亡くなった人と自分たちを縦につなぐものである。
インドから中国をわたってきたお経の言葉はよく分からないだろうが、お経を読むということは、亡くなった人たちと生きている人をつなぐもとのと思って欲しい。
住職のその言葉が伝わったのだろう、私が経本をいただけると彼らに言うと、「私も」「ぼくも」と彼らは喜んで経本を持ち帰った。
帰宅して、仏壇に父の分骨と位牌を置いて、兄は、録音されている般若心経を再生させると、彼らは、経本を開いて、唱和し始めた。
今は、意味が分からなくても、そうすることで、彼らの曽祖父とつながりを感じることができたのだろう。
中村さんは、澤地さんとの会話の中で、小学生にまで英語を教えようとする傾向に、「まず、日本語を教えてくれと思いますよ」と語っている。
もしかすると、論語の素読をしていた寺子屋の時代をピークとして、日本の教育は劣化し続けているのかもしれない。
昨日、日課の北海道新聞のコラム「卓上四季」を書き写している、94歳の母。

これが続いている間は、ぼけそうにない^^
あらためて目次をご紹介
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はじめに
Ⅰ 高山と虫に魅せられて
Ⅱ アフガニスタン、命の水路
Ⅲ パシュトゥンの村々
Ⅳ やすらぎと喜び
あとがき 澤地久枝
あとがきに添えて 中村哲
岩波文庫版あとがき 澤地久枝
[現地スタッフからの便り1] ジア ウルラフマン
[現地スタッフからの便り2] ハッジ デラワルハーン
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次回は、第二章「アフガニスタン、命の水路」から、ご紹介したい。
