中村哲『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(聞き手 澤地久枝)より(3)
2021年 12月 24日
やはり、アメリカさんの言いなりなのである。
あの9.11から一ヵ月後、アメリカのアフガン侵攻もテロと同様の蛮行である、と言い切った人物のことを、政治家は思い出すべきだ。

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』の副題は「アフガンとの約束」となっている。
澤地さんが中村さんの活動を支援したいと思い、中村さんに会って本を出そうと考え、ようやく2008年と2009年に実現した対談を元にした本。
2010年に岩波から単行本が刊行され、今年9月に岩波文庫で再刊された。
今回も、第一章「高山と虫に魅せられて」の「伯父火野葦平」からご紹介。
前回、中村さんのご両親や祖父玉井金五郎、祖母マンについてご紹介したが、今回は、お母さんの兄、火野葦平について。
火野葦平が、両親の金五郎、マンをモデルにしたのが『花と龍』であったことは前回紹介した通り。
そして、火野葦平の作品として、より知られているのは、『麦と兵隊』だろう。
澤地さんが中村さんの祖父、祖母について質問することが導入部分となって伯父の話になる。
澤地 金五郎さんの記憶はおありになりますか。
中村 金五郎は、私が幼稚園のときに死んだので、それまでの記憶があります。お祖母ちゃんは私が中学校のときに亡くなったので、よく覚えています。金五郎より、マンさんのほうが印象が強いです。
澤地 美人ですか。
中村 いやぁ、昔は美人だったかもしれませんけども、しっかりした人でしたね。
澤地 大きい人ですか。
中村 いや、小柄な人です。小さいけど、質量が多いという感じでしたね。そこに座ってるだけで、皆、よけて通るような感じだった。存在感があったですね。
澤地 残ったお祖母さまは、ひとりで暮らしてらしたんですか。
中村 逆です。祖母のためにみな集まっていた。玉井家の重鎮といいますか、要として、その後十年近く生きました。まだ、火野葦平も健在でした。ただ、火野がしょっちゅう家を空けていたものですから、玉井家は、おばあちゃんなしにはまとまらないという状態だったですね。一族の中心のような存在として余生を生きたけれど、つらかったでしょうね。
葦平自身も、五十三歳で自決するわけです。私は中学生でしたね。
澤地 そのことはずっと隠されていましたね。火野さんの自決はなぜだったかとお思いになりますか。
中村 これは私の解釈ですけれども、火野葦平は、『革命前後』を出版した直後に死んでいる。ご存知のように、日中戦争中、『麦と兵隊』など、戦意高揚のための執筆をしたとされ、敗戦直後はGHQから、ものを書いてはいけないという禁止令を受けた。その頃にも自決を考えていたそうです。
その後文壇に復帰したわけですが、正直言って、その後の火野葦平というのは、文筆家というだけでなく、家族の経済を支えるためにも書きまくっていたというのが、現実だったのではないでしょうか。しかし、これだけは残しておきたいと力をこめて書いたのが、『革命前後』だと思います。敗戦前後のことを克明に記録しています。そして、やはり暗い思い出がよみがえってきたんじゃないかと思います。
エネルギッシュな人で、誰よりもたくさん文章を書いた人らしいです。いろいろなところに文を寄せている。『原爆の長崎』という写真集があるのですが、昭和二十七、八年あたりの出版だったと思います。そこに、はっきり、この原爆というものが、人間の手によって、人間の頭上に落とされたのだと書いています。
「あの戦争は何だったんだ」という疑問がずっとあったんでしょうね。ここからは私の推測ですが、かつては「この聖戦に勝ち抜く」ということを生きがいとしたわけで、そういった自分に対して「おまえは間違っていた」という強い否定的な感情が起きてきた。それがやはり、自決というかたちで展開せざるを得なかったのではないでしょうか。そう、私は感じます。
家族を食べさせるために小説やさまざまな文を書きながらも、火野葦平は、常に戦争に加担した過去の自分を責め続けてきた、ということか。
中学生だった中村さんは、書き続ける伯父の姿に潜む、その複雑な心情を読み取ることができたのだろう。
火野葦平を含め、日中戦争以降、戦意高揚のため多くの作家が従軍作家として動員された。
今ではほとんど休眠状態の兄弟ブログ「幸兵衛の小言」で、ずいぶん前に、NHKスペシャルを元に火野葦平のことを書いた。
「幸兵衛の小言」2013年8月14日のブログ
古い拙ブログ記事と重複するが、あらためて、火野葦平のことを振り返りたい。
今では内容が縮小されているが、放送当時のNHKサイトから引用した文を再掲載する。
NHKサイトの該当ページ
日中戦争の時代、『麦と兵隊』で国民的作家になった火野葦平が克明に記した20冊もの従軍手帳が北九州・若松に遺されている。この程、全貌が明らかにされ、陸軍報道部を中心としたメディア戦略が浮かび上がってきた。当時、中国の蒋介石政権は日本軍の残虐行為を国際社会に訴えていた。のちに陸軍報道部長となる馬淵逸雄は、これに対抗するため、火野を報道班に抜擢。徐州作戦に従軍させ、「兵隊3部作」はベストセラーとなり、映画化もされ、戦意高揚に貢献する。さらにペン部隊が組織され、菊池寛、林芙美子ら流行作家が参加していく。
太平洋戦争が始まると、火野はフィリピンで宣撫工作に従事し、大東亜文学者会議をリードしていく。しかし、実際に火野が目にしたのは過酷な戦場の現実だった。戦後、戦争協力で批判された火野は、自ら命を断った。作家を戦争に動員した軍のメディア戦略と火野葦平の軌跡を初公開の従軍手帳や関係者の証言から描く。
この文中、“戦後、戦争協力で批判された火野は、自ら命を断った”という表現には、補足が必要だろう。
火野が亡くなったのは昭和35(1960)年、安保の年であって、中村哲さんの中学時代、だから敗戦後すぐの行動ではない。
NHKサイトから、火野葦平(左)と陸軍報道部長の馬淵逸雄の写真を拝借。

この番組で強く印象に残ったのは、火野が父玉井金五郎に送った「未発表」部分のことだ。
そこには、従軍手帳に書き残された、彼にとっての戦争の真実が書かれていた。
戦争のネガティブな実態を隠そうとする陸軍報道部の方針から日の目を見ることがなかった部分にこそ、彼の後半の人生に重くのしかかっていた戦争の残酷性があった。
死にかけて苦しむ中国人が火野に自分の胸を指差しているのを見て、「楽にしてくれ」と哀願していると確信した火野が引き金を引いた事実を補完することで、「決定稿」とする、と表現した火野。
彼は、兵隊三部作の大ヒットで家を建てることもできた人気戦争作家としての事実、戦争に利用されてはいたが、結果として自分も利用したのだという事実を、周囲の批判も甘んじ真摯に見つめ続けていたのはなかろうか。
火野葦平の苦悩をあの番組で感じていたが、本書によって、身近で伯父の姿を見ていた中村哲さんから、より具体的な裏付けを得ることができた気がする。
本書から、もう少しご紹介。
澤地 軍の軍事思想普及会から「戦友に訴う」を中国戦線にいるときに出していますね。戦地で「麦と兵隊」「土と兵隊」など「兵隊三部作」を書いてベストセラー、人気作家でした。しかしいま読んでみると、かならずしも好戦的、戦意高揚的ではなく、戦地においての兵隊の日常が、よく書きのこされている一面があります。中国軍の抵抗にかなり苦戦する様子も書かれている、日中戦争を考えるとき、見落としがちなディテールが記されています。発表当時、削除を命ぜられた部分があったそうです。もちろん反戦や厭戦の作品ではないですが・・・・・・。
インパール作戦から帰って、南京で開催の第三回大東亜文学者大会に参加。豊島与志雄、草野心平、長与善郎、高見順も出ています。火野葦平は、小学校だった私でも憶えている目立つ作家です。
戦後の世相は、戦争中の文学者の言動にきびしかった一方、沈黙を守った作家たちの存在が、改めて評価された。「追放」というのは、言ってみれば日本の文壇の空気の反映ですから、本人としては、不本意だったでしょうね。
中村 無節操だということを言っていました。その無節操のなかに自分がいるというのが、また耐えられなかったんでしょうね。
あのとき、同僚で、「鬼畜米英」「滅私奉公」と言っていた仲間が、次々と変わっていくじゃないですか。
澤地 短い時間のうちにね。
中村 そのことが耐えられなかったみたいです。自分はというと、いままでそれで生きてきたのに、器用に変身できないですよね。それに十年かかったということになるでしょうね。
前回、中村哲さんの反権力的な姿勢は、祖父金五郎さん、父勉さん、そしてお母さんから継承したのだろう、と書いた。
そして、多数の著作で味わう中村さんの文章の巧みさは、伯父火野葦平から受け継いだ部分があるのかと思う。
あらためて、本書の目次をご紹介
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はじめに
Ⅰ 高山と虫に魅せられて
Ⅱ アフガニスタン、命の水路
Ⅲ パシュトゥンの村々
Ⅳ やすらぎと喜び
あとがき 澤地久枝
あとがきに添えて 中村哲
岩波文庫版あとがき 澤地久枝
[現地スタッフからの便り1] ジア ウルラフマン
[現地スタッフからの便り2] ハッジ デラワルハーン
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次回も、第一章から、中村さんの宗教に関する貴重な考察をご紹介する予定。
このシリーズも長くなりそうだ。
今夜はクリスマスイブで、八百万の神を信じる多くの日本人が、ケーキに宿る神に祈りを捧げるのだろう。
絵本作家で画家の安野光雅が昨年の今日旅立った。一周忌だ。
旧暦では十一月二十一日で、文明十三(1481)年に、一休宗純が亡くなった日。
安野さんと一休さん、お二人とも“風狂”という言葉で形容できる芸術家だったような気がする。
権威とか流儀とかは無縁な、遊び心旺盛な人、という印象だ。
そう考えると、火野葦平という人は、そういう遊び心などからほど遠い、自責と無念、怒りの心境に包まれて後半生を生きていたのだろうか、と思わないではいられない。
