坪井直さんの「あの日」を、振り返る。
2021年 10月 28日
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直さんが亡くなられた。
昨夜、NHKのニュースウオッチ9、テレ朝の報道ステーションでも、結構長い時間を割いて紹介していた。
「不撓不屈」と書かれた色紙を掲げている坪井さんの姿や、核兵器禁止条約の批准を求める当時の安倍総理との面談での「ネバーギブアップです」という言葉が印象に残る。
今朝の一面トップになっていた朝日新聞のネット記事から引用。
朝日新聞の該当記事
坪井直さん死去 被爆者を代表、世界で訴え 96歳
会員記事
2021年10月28日 5時00分
長年、被爆者の先頭に立って核廃絶を訴えてきた坪井直(つぼい すなお)さんが24日、貧血による不整脈のため、広島市内の病院で死去した。96歳だった。日本原水爆被害者団体協議会代表委員や、広島県原爆被害者団体協議会理事長として運動を率いた。葬儀は家族のみで営まれたという。
広島県音戸町(現・呉市)出身。広島工業専門学校(現・広島大工学部)在学中に爆心地から約1・2キロの広島市内で被爆し、全身に大やけどを負った。その後に御幸(みゆき)橋にたどり着き、地面に小石で「坪井はここに死す」と記した。橋に座り込んでいたとされる姿が、中国新聞のカメラマンの写真に残っている。
戦後は広島県内で数学を教える中学教諭に。「ピカドン先生」と名乗り、生徒らに被爆体験を語った。校長を経て、2000年に日本被団協代表委員、04年に広島県被団協理事長に就任。1995年、2000年、05年、10年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて被爆者代表として渡米したほか、フランスや、独立前後にフランスの核実験場だったアルジェリアでも被爆体験を語るなど、国内外で核廃絶を訴え続けた。
16年5月、米国の現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏と対面し、「核なき世界」の実現に向けて共に取り組むことを確認。オバマ氏と固く握手を交わす姿は世界に発信された。18年には広島市名誉市民に選ばれた。
最近は公の場には姿を見せていなかったが、核兵器禁止条約の今年1月の発効が決まると、「長年の悲願である核兵器の禁止・廃絶を具体化する大いなる一歩であることは間違いない。これからも険しい道が続くが、忌むべき兵器を世の中から無くすよう、諦めずに進んでいきたい」との談話を出していた。
記事中にある中国新聞のカメラマンの写真は、2015年8月のNHKスペシャル「きのこ雲の下で何か起きていたのか」でも大きく取り上げられ、デジタル映像解析によって、その被害の大きさが検証された。
あの番組は、実に良い内容だったので、ブログに記事を書いた。
今は、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に残っている。
「幸兵衛の小言」2015年8月7日のブログ
坪井さんのことを知るためにも、あらためて、あの番組から昭和20年8月6日の広島のことを振り返りたい。
「NHKスペシャル」の同番組のページから引用する。
NHKサイト「NHKスペシャル」の該当ページ
1945年8月6日、広島で人類史上初めて使用された核兵器。
その年の末までに14万人以上の命を奪ったという数字は残されているが、原爆による熱線、爆風、放射線にさらされた人々がどう逃げまどい、命つき、あるいは、生き延びたのか、その全体像は実際の映像が残されていないために、70年の間正確に把握されてこなかった。
巨大なきのこ雲が上空を覆う中、その下の惨状を記録した写真が、わずか2枚だけ残っている。原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。
被爆70年の今年、NHKは最新の映像技術、最新の科学的知見、生き残った被爆者の証言をもとに、初めて詳細にこの写真に映っているものを分析し、鮮明な立体映像化するプロジェクトを立ち上げた。きのこ雲の下の真実に迫り、映像記録として残すためである。
平均年齢が78歳を超えた被爆者たちは、人生の残り時間を見つめながら、「いまだ “原爆死”の凄惨を伝えきれていない」という思いを強めている。
白黒の写真に映る50人あまりの人々の姿―――取材を進めると2名が健在であることが判明。さらに、その場に居合わせた30名以上の被爆者が見つかった。彼らの証言をもとに写真を最新技術で映像処理していくと、これまでわからなかった多くの事実が浮かび上がってきた。
火傷で皮膚を剥がされた痛みに耐える人たち、うずくまる瀕死の人たち---
皆、爆心地で被爆し、命からがらこの橋にたどり着いていた。写真に映る御幸橋は、まさに「生と死の境界線」。多くの人がこの橋を目指しながら、その途中で命尽きていたのだ。
きのこ雲の下にあった“地獄”。
残された写真が、70年の時を経て語りはじめる。
※フランス公共放送F5との国際共同制作。
NHKのサイトには、2枚のうち1枚の小さな写真が掲載されているが、「ガジェット通信」には、その2枚の写真、実際の御幸橋にある写真を含む記念碑などを含め、この番組のことを紹介している。
2枚の写真をお借りする。
「ガジェット通信」の該当記事


「きのこ雲の下で何か起きていたのか」の内容を整理してみる。
少し長くなるが、ご容赦のほどを。
(1)写真とその場所
中国新聞社に厳重に保管されている原爆投下の3時間後に撮られた写真のネガがあった。
撮影したのは同新聞社のカメラマンだった松重美人(ますしげ よしと)さん。松重さんんは爆心地から約3km離れた自宅で被爆した。それでも、仕事柄、カメラ(これは、きっと名機マミヤ・シックスですね)を持って町に出た。
御幸橋で、その光景に遭遇。当時、国民の戦意を削ぐような写真の撮影を禁じられていたので、松重さんは躊躇っていたのだが、カメラマンの本能からなのだろう、シャッターを切った。二枚目は少しアップの写真だった。
御幸橋は、町の中心部と郊外を結ぶ重要な橋。爆心地から2キロ以内の壊滅地帯のすぐ近くながら火災をかろうじて免れたため、爆心地方面から郊外に逃げようとした人がようやく一息つける地点だった
(2)生存者:河内光子さん
御幸橋で撮られた2枚の写真に同じ人物が写っていた。セーラー服を着たその女性は当時13歳で、広島女子商業学校の2年生だった河内光子(こうち みつこ)さん。
河内さんによると、ガラスの破片がいっぱいついて背中に怪我を負ったが、痛いという意識はなかったという。彼女は友達の怪我のことで頭がいっぱいだったという。隣に写っている友達は、服は破れ肌があらわになっていた。
当日、河内さん達は爆心地から1.6kmの貯金局で仕事をしていた。河内さんは、原爆の猛烈な爆風に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられて気絶した。意識を取り戻すと、近くには内臓が飛び出た姿の同級生などが倒れている。顔を血で染めた友だちが「頭が割れた」と言いながら、抱きついてきたという。
河内さんが、火災から逃げ、通れる道を探しながら辿り着いたのが御幸橋だった。投下から3時間後、何が起きたのか分からないまま、傷ついた体でここにいたのだ。
写真には、河内さんにとって忘れられない女性の光景が写っていた。その女性は、黒焦げになった赤ちゃんを抱いていた。その子の姉のようだったった。「(姉と思われる少女は)起きてと叫んでいた」。河内さんは、「起きて」と叫びながら黒焦げの赤ん坊をゆすっている様子を自分で再現してくれた。「かわいそうだったが、どうしてあげるわけにもいかなかった」と河内さんは回想する。
(3)生存者:坪井直さん
この写真では人だかりがしていて、足に何かを塗っている人もいる。その足元には四角い箱のようなものが映っていた。臨時の救護所となっていたのだ。
その光景を少し離れた場所で見ていたのが、生存者の坪井直(つぼい すなお)さん(2015年当時90)。
坪井さんによると、それらの人々は火傷を負った体に食用油を塗っていたという。坪井さんも油を塗る順番を待っていたらしい。
坪井さんは当時20歳で、広島工業専門学校(広島大学工学部の前身)の学生。爆心地から1.2kmの屋外で被曝し、背中や顔などに大火傷を負い、耳の半分がちぎれていた。
瀕死の状態で御幸橋にたどり着いて周囲を見て、坪井さんは死を覚悟したという。坪井さんは、手元にあった石で「坪井はここに死す」と地面に書いた、と回想する。
番組後半、坪井さんは、自分の背中をカメラに写させた。70年経っても、大火傷の傷跡が痛ましい。きっと、原爆被害の記録を、自らの体で残しておきたい、という強い思いがあったのだろう。
(4)フラッシュバーンや、原爆投下後の光景
番組では、原爆特有の火傷「フラッシュバーン」についても、写真の検証を踏まえて説明されていた。
フラッシュバーンとは、強烈な熱線に当たることで皮膚の水分が一瞬で水蒸気になり、水蒸気で膨らんだ皮膚は裂けて垂れ下がり、痛覚神経がむき出しになる火傷。専門の医師の言葉によると、「おそらく人間が感じる痛みの中で最大の痛み」だという。
御幸橋にいた人の中には、フラッシュバーンによる耐えられない苦痛を味わっていた人も多かったと推定される。
フラッシュバーンの恐ろしさを、生存者の河内光子さんも自らの肉親のこととして体験していた。この写真にも写っている彼女のお父さんは屋外で被爆して大火傷を負い手が腫れ上がっていた。彼女が父親に声をかけ手を掴んだとき、腕の皮が剥けてしまったという。痛くないかと尋ねると、お父さんから「聞くな!」と怒られたと回想している。
番組制作にあたって、原爆投下当日に御幸橋を通った30名以上の方から話を聞くことができたらしいが、その光景は壮絶だったらしい。両手を突き出し、皮膚がめくれた腕が擦れないようにしていた人や、汚れた雑巾をぶら下げているような姿で多くの人が歩いていた、という言葉が、その光景の凄まじさを物語る。
(5)写真公表のきっかけなど
この写真は戦後しばらく人目に触れることはなかったが、その存在が世界に知られるようになったのは、アメリカの写真雑誌「LIFE」による1952年9月号のスクープだった。
なぜ、7年もの時間がかかったのかを、核兵器をテーマにしているジャーナリストのグレッグ・ミッチェルさんが語る。
ミッチェルさんは、写真を撮った松重美人さんから「写真はアメリカの進駐軍によって奪われてしまった」と聞いたという。
戦後、日本を占領したアメリカは、戦争被害の写真を検閲し、日本人が撮影した写真を見つけては没収していた。ミッチェルさんは語る。「原爆投下が実際に何をもたらしたのか、アメリカ政府は隠そうとした。一般市民を巻き込み無残な死に方をさせた事実を知られたくなかったのだ」。
2015年にワシントンで原爆展を開いたアメリカン大学のピーターカズニック教授は、公表までの7年間にアメリカで何があったのかを語る。この間、「冷戦」において、核兵器が重要な抑止力となるとアメリカは考え、原爆へのネガティブな情報である同写真は、日本はもちろんアメリカでも7年間秘密にされていたのだ。
2枚の写真に写っていた中では、河内さんの同級生の消息も分かった。
しかし、その同級生の女性は、被爆者として差別されることを怖れて、写真に写っていることを公けにすることを拒んだ。『黒い雨』でも分かるように、被爆者への差別は、根深いものがあったのだ。
爆心地から2キロ以内の壊滅地帯には、12歳~13歳の中学生が約8000人いて、勤労奉仕中だったその人たちの多くが亡くなっているという事実も、あまりにも辛い。
河内さんは、自宅で黒焦げになった姿で見つかった母親を含め、亡くなっていった人たちのことを思い、「私はどうして生きたのか」「どうして助かったのか」と問い続けてきたと言う。
生かされているのは、伝えるためになのか、それもよく分からない・・・と河内さんは語っている。生と死の紙一重のところにいた河内さんには、人には分からない苦悩が続いていたのだろう。
坪井さんは、放射能の影響に違いないと思われる癌などの病気と闘い続けていた。
被爆者が年々少なくなるなか、坪井さんは杖を突きながら歩く身で、自らの経験を伝え続けていた。
「人間の命がいちばん大事。その命の取り合いをする戦争なんてもってのほか」と若い聴衆に訴えている姿に、頭が下がる。
爆心地近くにいた数少ない生存者である河内さんも坪井さんも、そして、長年に渡り「黒い雨」訴訟で被爆者手帳の申請をしてきた方々も、すべての人が、戦争被害者である。
私はこの写真のことや河内さん、坪井さんのことをこの番組で初めて知ったのだが、後で調べると、これまでにもメディアで取り上げられていた。
16年前の日経に、河内さんの被爆体験記の出版記念会でお二人がお会いしたことが掲載されている。
日経の該当記事
原爆も原発も、人類が、自然に存在しない放射性物質を作り出してしまったことに端を発する、人間の管理できない魔の産物である。
核兵器廃絶を唱えるのであれば、「核」になり得るプルトニウムを作り出す原発も含め、廃絶すべきである。
原発の“産業廃棄物”で作られる劣化ウラン弾が、どれほど中東で一般市民の命を奪ったことか。
使用済み核燃料が、どれだけ長い間人類を危険に晒し緊張を強いるものなのかを知っているなら、新たな核のゴミを作り出す原発再稼働などを唱えることはないはずだ。
河内光子さんは、2018年1月22日、副甲状腺腫瘍のため86歳で亡くなった。
しかし、広島平和資料記念館のサイトの「平和データベース」で、河内光子さんの証言ビデオを見ることができる。
「広島平和記念資料館」サイト平和データベースのページ
そして、坪井さんも旅立った。
私には、衆院選の投票に際して、いくつかの判断基準がある。
その一つは、世界で唯一の被爆国なのに、核兵器禁止条約に批准しようとしない政党と候補者には投票しない、ということだ。
あの日、何が起こったのか。
それは、今後も世界中の人々が忘れてはならないことである。
「不撓不屈」
“Never Give Up”
坪井直さんの精神を、これからも日本国民として継いでいかなくてはならないと思う。
