「続・男はつらいよ」が作られた時代について思うこと。
2021年 10月 16日
1969年の映画化第二作、「続・男はつらいよ」だ。
寅の実の母が最初に登場する、貴重な回。
山田洋次監督は、この作品で、当初はもう終わりのつもりでいた。
松竹の「シネマクラシック」サイトから、引用。
「シネマクラシック」サイトの該当ページ
第2作 (昭和44年11月 公開)
続 男はつらいよ
一年ぶりに帰郷した寅さんは、葛飾商業の恩師・坪内散歩(東野英治郎)と、その娘・夏子(佐藤オリエ)と懐かしい再会を果す。酒を酌み交わしたものの、寅さんは胃けいれんを起こし入院してしまう。しかし寅さんは病院を抜け出し、無銭飲食をして警察沙汰となり、さくらは心を痛める。故郷を後にした寅さんは、京都で夏子らと偶然再会し、散歩先生の薦めで、“瞼の母”に会いに行くが…
散歩先生とその娘をめぐるエピソードの温かさ、瞼の母に感動の再会と思いきや、実は…という悲喜こもごも。爆笑のなかに、ミヤコ蝶々演じる、寅さんの産みの母・お菊が、重ねて来た苦労が偲ばれる細やかな監督の演出など、みどころタップリ。
以前、テレビドラマのアーカイブを見て感じた、寅の「渡世人」としての姿が、まだ残っている作品だ。
たとえば、病院を抜け出して、登(津坂匡章)と焼き肉屋で無銭飲食するあたりは、たしかに、思わぬ出費(さくらへの小遣い)はあったとはいえ、登にも金があるはずもなく、ほぼ確信犯的なのだ。
焼肉屋の主人を乱暴にあしらうのも、後年の作品には見られない場面。
昭和44(1969)年の作品だから、渥美清は、まだ四十一歳、若い。
この作品の時点では、まだ、ギネス級のシリーズになることになるとは、監督の山田洋次も思いもしなかった。
テレビの最終回で、寅が沖縄でハブに噛まれて死んだという設定に、多くの視聴者から抗議の声があり、松竹は映画化することになった。
そのいきさつは、以前、小林信彦の本から紹介したことがある。
2015年6月21日のブログ
重複するが、ご容赦のほどを。
小林信彦著『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)
テレビに視聴者のドラマ終了への反対の声と対照的に、松竹での映画化についてはメディアの反応は決して良くはなかった。
さて、「男はつらいよ」のクランク・インの初日。取材したのは日刊スポーツの記者一人と伝えられるが、渥美清は次のように語った。
-おかげさんで、また寅をやれることになりました。こんな役は私の生涯で二度とないですから。
<渥美は元気だったが、山田洋次監督の表情は厳しかった>
と記者は書き残している。
<・・・・・・四面楚歌(の中で)のスタートだったことはハッキリ言っておきたい。>
山田監督はいつも<厳し>い表情の人のように思われるが、この時は一段と複雑な想いだったにちがいない。
1971年(というのは二年後であるが)に、品田雄吉の質問に答えて、山田洋次は次のように語っている。
<脚本(ほん)というのは、テレビでこういうのをやる場合は、小林(俊一)さんなんかと一緒に出て、ワイワイいいながらつくるのが通常ですよね。そういうものがなければ、テレビの仕事というのは楽しくならないし、それが取り柄なんじゃないですか。(中略)しょせん一時間のものを二日で撮り上げるみたいなことで、完璧なものができるわけがない。>
映画化について-
<渥美ちゃんで一本という話は前々から会社でもありまして、この辺でそれをやらないかという話が来て、いろいろ考えたけれども、テレビのラストで(寅が)死んだときの抗議の殺到のしかたを見ると、かなりいい線いっているのではないかと。
(中 略)
最初はずいぶん反対されたし、題名についてもいろいろ反対されましたけれども、ぼくはいけるんじゃないかと。特に深夜興行が松竹はだめでしたから、この作品なら、テレビの観客も、場末のあんちゃんたち、あるいはレストランのコックさんとか、バーのバーテンが大きなファンだったから、土曜の夜中なんかにドッとお客さんが来てくれることをかなり期待して、わりに強引に押しきってつくったんです。>(キネマ旬報社「世界の映画作家14 加藤泰・山田洋次」)
このように、主演の渥美清の嬉しそうな言葉とは対照的に、山田洋次が、決して周囲に歓迎される中で船出をしたわけではなかったことがうかがえる。
また、実に具体的に客層を狙っていたのが、興味深い。
さて、映画化の結果だが、四作まで作られたが、観客動員は、決して良くなかった。
三作目と四作目は、山田洋次は監督ではなかった。山田は、“良い悪いではなく、寅さんのにおいがしない”という思いがあったため、完結篇を作るつもりで、第5作「望郷篇」のメガホンを取る。
そして、想定外のヒット、そしてシリーズの継続となった。
この第二作「続・男はつらいよ」と、第四作「新・男はつらいよ」の二作品のみが、観客動員数50万人に満たないのだ。
「男はつらいよ」の松竹公式サイトに、各作品の観客動員数が掲載されている。
「男はつらいよ」松竹公式サイト
この数字を元に、昭和44(1969)年から平成7(1995)年までに公開された「男はつらいよ」全48作の観客動員数をグラフ化してみた。
「国民的映画」となってからの観客動員数はとんでもない数字なので、それだけ四作目までの少なさが目立つ。
しかし、私は、この「続・男はつらいよ」の、渡世人車寅次郎が、嫌いではない。
というか、あの時代を反映する部分があると思う。
時は、まさに70年安保闘争の年。
そして、アメリカでは、8月にあの「ウッドストック」があった年だ。
いわゆる「カウンターカルチャー」の象徴だ。
この年、邦画の興行収入トップ10は、次の通り。
Wikipedia「1969年の映画」
1.栄光への5000キロ 松竹映配6億5000万円
2.日本海大海戦 東宝3億6000万円
2.超高層のあけぼの 東映3億6000万円
4.人斬り 大映3億5000万円
5.千夜一夜物語 日本ヘラルド映画2億9000万円
6.御用金 東宝2億5000万円
7.新網走番外地 流人岬の血斗 東映1億8000万円
7.日本侠客伝 花と龍 東映1億8000万円
9.日本暗殺秘録 東映1億6000万円
9.コント55号 人類の大弱点 東宝1億6000万円
東映の任侠映画が、複数ランクインしている年なのだ。
ちなみに、北米の興行収入ランキング。
1.明日に向って撃て 20世紀フォックス$102,308,889
2.真夜中のカーボーイ ユナイテッド・アーティスツ$44,785,053
3.イージーライダー コロンビア ピクチャーズ$41,728,598
4.ハロー・ドーリー! 20世紀フォックス$33,208,099
5.ボブ&キャロル&テッド&アリス コロンビア映画$31,897,253
6.ペンチャー・ワゴン パラマウント映画$31,678,778
7.勇気ある追跡 パラマウント映画$31,132,592
8.サボテンの花 コロンビア映画$25,889,208
9.さよならコロンバス パラマウント映画$22,939,805
10.女王陛下の007 ユナイテッド・アーティスツ$22,774,493
1位から3位までは、間違いなく、あの時代の代表的な映画であり、それらは、個人と組織、市民と権力者、若者と既成勢力などとの対立がテーマとして見えてくる。
山田洋次が、どれほど、当時の社会の空気を映画に投影したのかは分からないが、寅さんが、医者役の山崎努に投げ掛ける、あの「さしづめインテリだな」は、明らかに反権力の表明だと思っている。
寅さんは、もちろん、エンターテイメントとしての要素があったから、あれだけの興行成績を収めた。
しかし、日陰者、渡世人として、権力や「勝ち組」とは対照的な位置に存在していたからこそ、多くの日本人に共感を呼んだということを、初期の作品は思い出させてくれる。
衆議院選挙が近づいている。
寅さんなら、今の政治状況を、どう形容するだろうか。
寅さん映画第二作を見て、その作品の作られた時代について、いろいろ思う夜だった。